Jyu Horiuchi Ballet Project  

バレエダンサー・振付家  堀内 充の公演活動報告

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被爆体験:平和への願い

千田公園


  「被爆体験談、平和への願い」
 まずは今から67年前の8月6日に広島の原爆に被爆され、生涯の命を失われた方々、今尚原爆症で心と体の痛みに苦しんで居られる皆様に心から哀悼の意と、闘病生活に苦しんで居られる方にお見舞い申し上げます。



 私の被爆体験は
  テーマ「もしもあの時に」


 「もしもあの時に」は、当時の被爆体験者20数万人の方々にも必ず思い出されることだと思い、私の体験談を応募することと致しました。
 昭和20年4月に南区の皆実小学校を卒業、広島市立工業高校(現在の私立工業高校)の工業化学科に入学、同じ町内(皆実町六丁目)の友人も電気科で当時の段原町の兵器廠被服廠を左に見ながら2人で通学したものです。授業は週2日位なのですべて頭に詰め込み、連帯主義で化学記号もAg(鉄)からZn(亜鉛)まで半日で丸暗記。先輩達も学徒動員で顔を合わせる事はありませんでした。私達も学徒動員で兵器廠の暗闇の中で1日中油とトクサで鉄砲等の錆取りをしたり、広島駅から芸備線で4駅目の安芸矢口で下車し、一里くらい先の山中で米軍との本土決戦の準備として横穴を掘り、軍の司令部とか高射砲の陣地等の土方作業に学徒、婦人会、外国人、囚人等が働いていました。安芸矢口駅から現場の山中までは学徒動員歌「ああ紅いの血は燃ゆる」や軍歌を歌い乍ら行進したものです。一番難儀でしたのは食生活で、7月に入ると以前ワラパン(ワラを粉末にし、よもぎを混ぜたもの)、大豆カス、コウリアンの配給はありましたが、配給の量は少なく、草の葉、根等を食用としていました。今思い出されるのは一番美味しかったのは茅(カヤ)根をしゃぶれる事でした。
 建物疎開は市内の中学生、女学生は全員総動員で、家の主柱をノコギリで半分位切り、そのあと学徒がロープで四方八方から引張れば寸時に倒壊し、瓦等の片付作業を男子学徒は上半身裸で、真夏の中誰一人ぐちる事なく一生懸命気力で耐えた当時でした。
 8月に入り隣の呉市は毎晩のように九時ころには焼夷弾攻撃を受け、私の家の近くの千田男爵公園から真夏の花火のように天空を真赤に染めていました。原爆投下前の5日の夜も呉市は焼夷弾攻撃も一層激しく感じました。
 原爆投下当日8月6日、私の人生は一変しました。前夜父親は祖母の葬儀が終わり、郷里の柳井から帰ってきました。父は三菱重工業観音工場勤務でしたが、その日はメリケン粉やお米をもらって帰って来ました。「6日はビスケットを作って待っている」との事で気持ちがゆるみ、当日の建物疎開作業も午前中の予定であり、私は学校規則である足のゲートル巻を、この日に限りゲートルを巻かないで半ズボンで集合場所の県立師範学校に集合、建物疎開の解体は比治山本町(当時は比治山橋周辺)でした。
 朝7時前警戒警報が発令され、まもなく解除され集合場所に行きました。作業開始は8時で笛が鳴ると男子生徒は一斉に上半身裸で作業をするものですが、当日は8時10分過ぎても作業開始の移動指示もなく、友人と「今日は遅いネ」と言い乍ら芝生に横になった瞬間、回りが真黄で全く状況が解らない状態で立ち上がるにも、建物の下敷きとなって居り、回りの建物も倒壊し衣服は焼けちぎれ、肌の皮膚はワカメの様に垂れ下がり、赤身の状態でお互い顔を見合わせる様子でした。特に私は半ズボンの為、大ヤケドは他の人達とは比較になりませんでした。警戒警報もなく空襲警報もなく、敵機来襲の報道もなく何事?、私は友人と2人で兵隊に見つからない様、見つかると一斉収容される不安があったので、遠回りではあるが皆実小学校の防空壕の溜まり水で体を冷やしました。何分暑くて暑くて身体を少しでも冷やしたかったのです。家に着く途中、他のお母さん達が「あなたはうちの子でしょう?」「うちの子ではないの」みんな同じ形相なので母親達も我が子を見つける事も難しく、京橋川に暑さと熱と喉の渇きで入水死亡者が続出し、自宅に帰れない生徒も沢山居り、母親の悲痛な思いが思い出されます(皮膚がないとみんな同じ顔)。
 私は無事に帰宅、すぐ近くの現在の県立病院に両親と行き、各被災者の親達が、看護婦さんも医者も不足のため、ガーゼに食油をつけて患部に貼っていました。看護婦さんは大声で「絶対水を与えない様に、与えるとなくなりますよ」と厳しく注意していました。父親はガーゼ、脱脂綿に水を吸い込ませ、口びるを拭いたり当てがってくれました。現在も咽が渇く程苦しいものはないという思いを致して居ります。病院は大混乱でした。
 間もなくして軍隊から常用食である乾パンが配給され、何ヶ月ぶりかに人間が食するものを食べることが出来、これで生きられるかと・・・。その6日の夜は自宅は傾き寝ることが出来ず、千田男爵銅像の下の松の木に蚊帳を張って父母と弟(満1歳)と4人で2日間野宿をしました。父親は柳井の親戚と連絡をとり、8日の晩、叔父2人と父親で皆実町六丁目(当時三丁目)から広島駅まで大八車に担架を乗せ、その上に私を乗せ移動しました。
 途中明かりのない廃墟の中、所々に遺体を野焼にしている光景を見ながら、広島駅から翌九日の朝柳井駅に到着、駅近くの病院に入院治療する事になりました。入院先の院長先生からこんな重体の患者を扱うのは開業以来初めてだと言われました。父は家族が広島に居り、すぐ引き帰りました。親戚の家政婦さんや従姉達のお世話で気持ちの面では苦痛はないのですが、体全体の四分の一、両手、両足、顔一面が大ヤケド。そのヤケドの痛みは体験者でないと解らないでしょう、立つ事も座る事も出来ず、食事も、排尿排便は勿論出来ない状態でした。然も8月の猛暑の中、化膿の恐れもあり、唯々我慢の毎日であり、日米決戦の必勝を願って入院生活を送っていました。でも8月15日は日本国が無条件降伏となり、これからの日本はどうなるのか、玉音放送は病院のラジオで聞きました。
 でも私の試練はこれでは終わらなかった。
 9月17日に枕崎台風が山口県を直撃。両親は弟と広島駅から柳井駅まで無賃乗車、両駅のトイレの壁を越え、私の入院先病院に辿り着きました。その時は柳井川は決壊、特に柳井駅周辺は地面も低く病院は浸水。夜10時から朝7時位まで父親と母親(1歳の弟を背負ったまま)は約9時間、濁流の中、私の担架を持ち上げ、水位の下がるのを待ちました。翌18日には付近の町内の方々と一緒に手配された船に乗り高台に移動しました。数日後山陽本線も開通し、私は又担架に乗り、母親の実家(防府市)で治療を受けることになりました。母親の実家は私の生家でもあり、祖母と叔母2人が同じ様にガーゼ、食油で患部の貼り変えをしてくれました。その後父親も母親も弟も防府に来て呉れないので、山陽本線の汽車の音を聞きながら、今日は来て呉れるだろうか明日は来て呉れるだろうか、毎日毎日一日千秋の思いで父親、母親を待ち続けました。11月の終わり頃、叔母に何故お母さん達は来てくれないのと聞きました。返事は意外に母親も弟も枕崎台風の濁流の中で腸を冷やし柳井の病院に赤痢で収容され、誰の立会もなく亡くなったとの話でした(私に気遣って何も言えなかったのでしょう)。
 母親は36歳、弟は1歳、とても悲しい事実を知り無念でした。これからの自分自身の不安を思い、3日間泣きました。今でも思い出すと涙が出ます。身動きの出来ない状況で、唯口だけは「人間は必ず死ぬる」「人間は必ず死ぬる」と3日間ひとり言を口ずさみました。叔母は「この子は何を言っているのかネ」と。私は当時の現実を受け止める事は出来なかった。父も母も弟も私の犠牲になるなんて今も悔いが残ります。12月には母方とは縁が引かれ、又柳井の父親の実家の方でお世話になることになりました。ヤケドの傷口は寒くなる程回復が遅くなり、父は付きっ切り食油とガーゼで傷口を貼り変えて呉れました。
 翌年(昭和21年)の4月には学校の転校手続きもあり、4月までには立ち上がり歩行出来る様にと天井からロープを下し、これを両手で握り立ち上がる訓練をしました。唯転校の方は8ヶ月も学校を休んで居り、再入学となりました。
 その後の私の今日まで66年の人生は語りつくせませんが、 ”忍”の人生ではなかったでしょうか。

 


「もうあの時に結言」
PartⅠ(校則違反)
 8月6日朝、学校規則のゲートルをつけて建物疎開に行っておけば、両足のヤケドはなく、両手と顔一面のヤケドで2ヶ月位で全治しただろうものを、ゲートル着用がない為、8ヶ月の治療を要し、(ゲートル着用していれば)県外の移動もなく、家族4人も健在だったと悔いが残ります。


PartⅡ(懺悔)
 9月17日の枕崎台風で柳井川が決壊、父母が来なかったら私は瀬戸内海に流されたでしょう。でも母親も弟も亡くならずに生き延びた筈です。母親、弟に助けられて今生きていることに懺悔の気持ちです。


PartⅢ(作業開始時間)
 当日6日朝8時予定通り建物疎開の作業開始されて居たら男子生徒は上半身裸で作業の為、死者はまだ増えており、当然私も即死の状態であったと思います。作業開始が8時でなくて、生き延びた方は多数にはなると思います。


 最後にこの体験談を書いている中、何度か涙が出ました。昔を思い出す、ましてや文章にするなんて思ってもいませんでした。悲しい涙、ヤケドの痛みに耐える涙、家族との離散、別れの涙、友人達を失った涙、限りがありません。




 この文章は妻(麗子)が代筆してくれました。今年の5月で結婚48年を越えました。3人の子供達は遠くにいますが、自分乍ら、立派な子供を育て上げた妻は素晴らしいの一言です。あと2年で金婚式です。それまで頑張りたいです。


 

伝えんにゃいけんこと


私の父(行友昭生)は2012年5月に亡くなりました。
亡くなる数日前にこの遺稿を書き終えたようです。
短い入院だと思い、母に清書を頼むためにこの原稿だけを持ち込んでいました。

被爆以来何十年も経っていますが、父から原爆や子供の頃の話を聞いたことはあまりなかったです。
そんな父が自分の終わりを知ったのか急に昔の話をするようになりました。
「伝えんにゃいけん」という使命があったのかもしれませんね。
(戦争云々ではなく自分の起こしたことに悔いていて・・・父らしいです)

亡くなった翌年の原爆の日に父が野宿をした「千田廟公園」に母と行きました。
そして原爆投下直後の焼け野原の写真も見ました。

父が子供の頃を想像しながら・・・


「ありがとう」
「こちらこそ」




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