堀内 充の時事放談

バレエダンサー・振付家・大学教授として活動を続ける堀内充の公演案内です。
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●2017年4月
今年の日本の春はなかなか暖かくならず桜の開花も遅く、近年この地球温暖化によって卒業式の風物となっていたものが、久しぶりに4月の入学式シーズンに開花しそれがかえって、かつての自分の世代の頃の開花シーズンと重なり懐かしくもあった。
東京では今年も5月下旬に堀内充バレエプロジェクト公演を行う予定で、3月より公演リハーサルを開始した。今回もオーディションを中心に選ばれた女性・男性ダンサー総勢50名近くが出演してくれることになり、早くも熱気溢れる稽古が行われている。若いダンサーたちとのふれあいがうれしく、また今回はかつて10数年前まで私のリサイタル公演で長く共演してくれた大切な仲間である3名の女性ダンサーにも呼びかけ、久しぶりに同じ舞台に立つことになりとても楽しみにしている。
大阪では森友学園問題が連日報道され、塚本幼稚園が連呼されており、私の勤める塚本学院大阪芸術大学にも幼稚園が併設されているが全く別物で、春の辞令式の際、塚本邦彦学長が「よく勘違いされ迷惑だ」と仰っていたが全く同感でどうか間違えないでいただきたい。3月はさまざまな舞台にかけつけることが出来た。松山バレエ団東京公演であり、森下洋子先生のジュリエット役を1年ぶりに観させていただきその美しい姿に堪能し、総監督清水哲太郎先生に終演後歓迎を受け、バレエ団の皆さんと記念写真まで撮っていただいた。哲太郎先生にはこのコラムに書いたように未だに恩返しができていないのだが、さすが世界的に活躍されてきた人格そのままに真摯な姿勢で温かいおもてなしを受けた。洋子先生にも「充ちゃんまたバレエ団にいらっしゃい」というお声がけをいただき、ただただ恐縮するだけであった。
今、国内モダンダンス界でもっとも注目を浴びる若手ダンサーで大阪芸術大学舞踊コース卒業生でもある前澤亜衣子と乾直樹君が主催するピース・オブ・モダンダンスカンパニー公演も素晴らしかった。これまでに数々の振付コンクールに優勝し、それぞれニューヨークへ文化庁在外派遣員として舞踊留学経験を持ち、振付活動を展開している新進気鋭の舞踊家で、今回で5回目の公演であったが私はこれまですべて拝見し、パンフレットにもふたりの活躍ぶりを執筆させていただいたこともあり、また以前にも大学舞踊公演に同時の在校生に彼らの活躍ぶりをみてもらいたくて東京から呼んでゲスト出演もしてくれた。特にふたりのデュエットのパートナーシップはクオリティーが高く国内舞踊界で文句なしのトップクラスだろう。近年無国籍な奔放なダンスが展開されるなか、この若いカンパニーの舞踊スタイルは美しい西洋的スタイルを保っており、バレエ出身舞踊家としてもとても嬉しい存在である。東京で素敵なスタジオ本拠も構えており、今後も目が離せない若手アーティストである。
Kバレエカンパニー・スプリング2017公演で親友が久しぶりに踊り、相変わらず客席を沸かせた。今回は10分ほどの新作小品に女性とデュエットを踊っただけだったが、オーラが突出しそれが美しく、また主題である音楽に反応するひとの心を巧みに表現していた。3月に私の大切な恩師を亡くしたときにも連絡をくれ、友人に対する温かい気遣い、励ましはやはり一流の芸術家の姿勢をみる想いでうれしかった。他に「ピーターラビットと仲間たち」や「レ・パティヌール」も上演し、かつてロイヤルバレエ団時代に踊った彼にとって思い入れのある作品を並べたことが自身のバレエ団の若いダンサーに対する愛情の証しに映り心動かされた。
スターダンサーズバレエ団でわが師ジョージ・バランシンの「セレナーデ」が上演されたがここでも私の大学の教え子である若手男性ダンサー宮司知英がリーディングロールを務めてくれたのも嬉しかった。
また同じ東京芸術劇場で行われた現代舞踊協会公演では私の同世代のモダンダンスアーティストである二見一幸君の振付作品「RITE-儀式-」に心惹かれた。昨年同じ公演で同じく同世代のモダンダンスアーティスト能美健志君の作品「春の祭典」も独創的ながら正統派で力強いインパクトを残し、同じ時代を生きる芸術家として励みになった。ふつう音楽界でも若いときからの贔屓のアーティストにはこちらが幾つになっても同世代の誇りとして一緒に追いかけ続ける。まさにふたりの存在はそれで私の誇りでもある。若いひとたちはこのように横のつながりを大事に共に歩みながら生きてほしい。音楽界の話が出たのでおまけにひとつ。舞踊公演やオペラ公演鑑賞に飛び回る合間を縫って木村カエラのコンサートにもお忍びで?ひとりで足を運んだ。以前私のバレエ作品で彼女の楽曲を使わせていただいたぐらいファンで(同世代ではないのだが…)この春のツアーを楽しみにしていた。東京・国際フォーラムで行われたコンサートでは何と前から10番目をゲットした。実をいうといい席がとれすぎてしまったと言った方が正直な気持ちで、その日は昼間のリハーサルで疲れ気味で出来れば今日は座って楽しみたいなとかすかに思い始めた。だが当日コンサート会場客席は開演前こそまわりの観客は座って静かに待っていたのだが、隣の女性は10分ぐらい前から立ち上がって入念に腕や肩をグルグル回し始めてウォームアップを繰り返し、反対側の女性ふたりも静かに話をしていたのに、5分前になったらカバッとジャケットを剥いでカエラTシャツになって高揚感丸出しで立ち上がった。そしてカエラ本人がステージに登場するとやはり全員総立ちでコンサートは始まった。私はもちろん?甘い気持ちを捨てて立ち上がり、こちらは世代を超えて声援を送りコンサートを楽しく楽しく堪能したのだった。
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●2017年3月
今年の2月は東京と大阪には私が滞在中はどちらも雪が降らなかったがそれでもかなり寒い日が続いた。中旬には大阪芸術大学卒業舞踊公演を無事に終えた。今年は特に観客動員が素晴らしく2日間合わせて3階席を含めたほぼ満席の900人近くお越しいただいた。これは出演者の力に他ならない。舞台という瞬間芸術に多くの方々を招くことも大切にさせており、学生ダンサーたちのその努力と実行に拍手を送りたい。また遠方よりお越しいただいた観客の皆さまに感謝したい。名物となったラストのフイナーレも今年も出演者4年生から1年生まで全員が踊り抜き多くの涙を誘った。
2月・3月は舞台観賞に忙しくなる。毎年この時期は冬と春の定期公演シーズンの合間で海外からもバレエ団が頻繁に訪れ来日公演が行われる。私も大学が春期休暇中でタイミングがよく、昨年はドイツ・ハンブルグバレエ団、今年はフランス・パリ・オペラ座バレエ団公演を観に行った。ハンブルグバレエ団は名振付家ノイマイヤーが健在で、「回転木馬~リリオム」という全幕バレエと彼のバレエコレクションを並べたガラ公演のふたつを鑑賞し、パリ・オペラ座バレエ団はトリプルビル「テーマとバリエーション」「アザーダンセス」「ダフニスとクロエ」を観た。芸術監督を昨年までわが母校の後輩であるニューヨーク・シティ・バレエ団のプリンシパルダンサーだったベンジャミン・ミルピエが務めていたが、彼の作品を初めて観れて嬉しかった。在任期間中の2年間はパリジャンたちにはアメリカンバレエ出身ということをあまり好意的に受け入れてくれず(ベンジャミンは自国フランス人なのに!)苦労したようだが、今後は国際的振付家として世界じゅうを飛び回って頑張ってほしいと願っている。他に親友が久しぶりに出演するKバレエカンパニー、かつて自分が数多く主演を務めた東京シティ・バレエ団をはじめ、スターダンサーズ・バレエ団、そして国内モダンダンス界最高峰の現代舞踊公演などを観に行く予定で楽しみにしている。
バレエの姉妹芸術であるグランドオペラについても触れておきたい。バレエを学ぶためにはオペラもぜひ学んでほしいと日頃から教え子たちには話している。私自身若い頃ニューヨーク留学時代は好んでメトロポリタン歌劇場に足を運び観に行っていた。レパートリーのなかでは定番だが、「タンホイザー」「アイーダ」「フィガロの結婚」が好きであった。オペラを初めて観るひとには「椿姫」を勧めたい。音楽が美しく馴染みやすく、何度聴いてもあきないからである。若かった頃は仕送りでお金も限られていたため、観るときは4階席ばかりだったが、ニューヨーク・リンカーンセンターにあるふたつのオペラハウスの特徴はこの3・4階席以上の席数が全体の半数近くを埋めていることである。オーケストラ席と言われる1階席は100ドルや200ドルで日本円でも何万もするが、この最上階は日本円でも千円程度で立ち見なんて500円ぐらいだった。実はこの上階の観客席で繰り広げられる光景がとってもユニークでニューヨークの名物でもあったのだ。初めてそこに座って観賞していた時、あることに驚いた。オペラの名場面シーンでコーラスが繰り広げるところで、「さあ、いよいよだ」とこちらもわくわくして聴いていると「あれ?」と不思議に思うことがあった。それは舞台とは真反対の聞こえてくるはずのない観客席のうしろから大合唱が聞こえてくるのである。ん?と振り返ると、何と自分と同じぐらいの音楽大学生であろう若者たちがみんな楽譜を膝もとに置いて大合唱をしていたのである。まだカラオケなんてない時代、つまりここが絶好のカ・ラ・オーケストラで歌う場所でもあったのだ。こっそり口ずさむのではなく、堂々と歌い上げ、中には指揮棒持って振りながら歌っている者もいた。純粋に聴きたいオペラファンの方々はみんな1階席で聴いており、4階席ならば確かにかなり遠くてバレないから大丈夫って感じであった。なので前観てもうしろを見ても楽しかった頃を思い出す。ニューヨークに行ったらオペラハウス、特に上階へどうぞ。未来の三大テノール歌手に会えるかもしれない。ただ昔の話しで今はやってなかったらごめんなさい。そんな隠れオペラファン?の私は昨年から今年にかけてオペラを5本ほど観ている。オーチャードホール芸術監督を務める親友も仕事柄オペラを観る機会がよくあり、お互い食事しながら「オペラはバレエみたいに原型や原振付といったものがないから、どんどん新演出が塗り替えられるように行われて、観ている側もついていくだけでも大変だなぁ」 「そうだそうだ」と話している。だから発想も奇抜で現代バレエもうかうかしてられない。この1年観たなかでも、モーツァルト「魔笛」はSF映画で登場するような大怪獣が多数出現するし、シュトラウス「サロメ」では大胆に天国・地上・地獄の3つが一挙に舞台上に立体的に三階式にセリに仕組まれたなかを歌手たちが行き来し、フランス革命を題材にした「アンドレア・シェニエ」も円形のせりに二場面のセンスある現代的美術装置が交互に回転しながら演出されていた。自分自身もオペラ振付をしたことがある「カルメン」はスタンダードながら大がかりな闘牛場の装置が度肝を抜いた。今月観た「ルチア」は主人公のルチアと恋人のふたりの結末を予感させる巨大な美術装置の岩山が実に不吉で美しい。しかしなんと言っても後にあのロマンティックバレエのジゼルの発想もとのひとつとなった30分を超える独唱゛狂乱の場゛を歌い上げたプリマドンナ、オルガ・ペレチャッコ・マリオッティの歌唱力、演技力が圧巻であった。音楽のドニゼッティもジョージ・バランシンがバレエ作品を創っていることもあり、バレエファンでもとても耳障りが心地よく楽しめる。今回は新国立劇場新演出ということもあり、観たものがああだこうだ言うのは観てない者に対して失礼でご法度なので控えるがすべてが素晴らしく、ぜひ足を運んでもらいたい。
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●2017年2月
今年もローザンヌ国際バレエコンクールが行われた。今回も日本人受賞者を出し、これで12年連続だそうである。すごいのかどうかはわからないが、報道される一方で、このコンクールを目指しながらさまざまな理由で果たせなかったり、過去に悔しい想いをしているひとたちもたくさんいるのも事実である。このコンクールで入賞してもその後成功の道を歩んだ者は決して多くない。バレエは日本にとってまだまだ現実的に厳しいものがある。スポーツは優勝したりすると賞金がありうらやましい気持ちにもなる。ローザンヌコンクールもキャッシュプライズと言って賞金もあるが、コンクールに出場するために本人はもちろん自身に付き添う指導者の分までの日本とスイスの渡航費や滞在費がかかり、その費用であっという間に消えてしまう。私も過去2回に渡って出場したが、1回目は父、2回目は母が付き添ってくれ、よく思い出話ではあの時はお金がかったなぁと笑いながら話していたものである。そんな親に今でも感謝の気持ちを忘れないようにしている。
1月8日に日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックに振付を委嘱されたバレエ「ライモンダ第3幕より祝典の場」を無事に上演することができた。今回舞台装置は宮殿を描いたドロップではなく、白を基調とした柱ジョーゼットと言われる中にイルミネーションを仕込むことができる立体的な宮殿を思わせる装置を飾っての上演となった。本番は主演の大滝ようさん、ロサンゼルスバレエ団の清水健太君、NBAバレエ団の山本晴美さんらが好演し大きな拍手をいただいた。この作品ではバレリーナとして活躍された沼田多恵さんがバレエミストレスとして携わっていただき、彼女の力なしでは上演を果たせなかったことを付け加えさせていただきたい。
2月18日19日と2日間にわたり大阪芸術大学卒業舞踊公演が大学芸術劇場で上演するため、1月から2月にかけてのべ2週間近く劇場を貸し切ってリハーサルを行っている。オペラ、バレエを視野に入れた本格的劇場でこれだけの期間独占して劇場レッスンからゲネプロまで出来るのは国内では新国立劇場ほか数ヶ所ぐらいで、私もアメリカやフランスでゲスト出演させていただいたバレエ劇場での生活を思い出し、自然と毎年この時期は張り切ってしまう。朝10時半から始まるレッスンでも私の友人や知人であるレッスンピアニストをお呼びして行いバレエダンサーたちも熱がこもる。彼女たちにとっても有意義で素敵な時間でもあり、月曜日から金曜日まで毎日クラスをするのだが、こちらも全霊を込めてるつもりが時として力が入りすぎてたまに説教までしてしまい、水を差すこともしょっちゅうですまない気持ちにもなる。そんな訳で「ああ、また言っちゃったな…」なんて夜ひとり大阪のホテルで反省する日々が続いている。
久しぶりに好きなフランス映画の話しをひとつ。現在全国の映画館で「ショコラ」が上演中で、この映画を心待ちにしていたので早速足を運んだ。ショコラとはフランス語でチョコレートの意。一見かわいらしいタイトルに聞こえるが、フランス史上初の黒人芸人ショコラことパディーヤというサーカス芸人の苦節の人生を描いた実話の映画化である。 愛と涙に満ちていて期待を裏切らなかったが、私がもっともこの映画で楽しみにしていたのは、主役のショコラではなく、サーカスで相方をつとめた白人芸人役を演じたジェームス・ティエレ。彼はローザンヌ生まれのなんとあのチャーリー・チャップリンの孫であり、このことは日本ではあまり知られてなく、今回の映画の宣伝でもあまり触れていない。彼は今は40代に突入したのだが、祖父が活躍したアメリカには渡らず映画の母国フランスで俳優として活躍している。その彼の人生も興味深いが、チャップリンといえば道化的な喜劇俳優としてあまりにも有名で、私も子どもの頃何度もテレビで見て彼の演技を楽しんでいた。父もチャップリンのことが好きだったようで好んで見ていたことを覚えている。私自身父が舞台人で二世としてこの世界に身を置かせてもらっているが、そのためか俳優、芸術家、芸人といった人たちの二世、三世の活躍が気になるところで、歌舞伎俳優などもそうだ。今回は祖父と同じような役どころまで演じているティエレだか、背かっこうまでチャップリンにそっくりで、迫真の演技を見せ楽しませていただいた。芸術家として血統とは何かということを含めとても学ばせられることが多く、また今やシルクドソレイユ全盛の時代だか、サーカスの原点を知る貴重な映画でもある。ぜひ足を運んでもらいたい。
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●2017年1月
南米のコロンビアのメデジン市で立て続けに悲劇が起こった。日本人留学生が強盗殺人に遭い、またプロサッカーチームのストライカーたちを乗せた航空機が墜落してしまうというあまりに痛ましい事件・事故が相次いだ。あまり日本人には馴染みのない都市だが私は25年程前になるがそこのバレエカンパニーに招かれ踊った思い出がある。今やテロ事件が頻発したり社会情勢の悪化のなか、今ではとても日本人が行ける場所ではないが当時は南国情緒に溢れ暖かい気候でヒスパニック民族が住む魅力的な土地であった。人々も温かくまた美しい街並みで素敵な思い出がある。劇場もオーケストラが優秀で生演奏で上演したが本番は素晴らしい音楽で踊らせていただき、いわゆる南米気質でカーテンコールも熱狂的であった。夜もテラスのあるレストランで夜空が澄んでいるなか、山あいの夜景があまりにも美しく、暖かな風あたりのよいテーブルで乾杯をした。どうか、またふたたび活気を取り戻してほしいと願っている。
12月から年明けにかけ、クラシックバレエ(和製英語・英語ではクラシカルバレエ)の巨匠であったマリウス・プティパとワイノーネンの改訂振付を3公演相次いで手掛けた。日頃から自身による振付作品を発表しているので、私が改訂振付していることを存じないひともいるようで「堀内さん、全幕の振付もやってください」とよく言われるが、「ジゼル」「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「ロミオとジュリエット」「真夏の夜の夢」などすでに手掛けている。オペラやミュージカルのバレエシーンもかなり振付しており、もっと発信していかなくてはならないのかなとも思うが今日はこれには触れずにおく。
12月中旬に大阪芸術大学舞踊コース2回生による公演を2日間にわたり上演した。主な演目は「ラ・バヤデールより幻影の場」とモダンダンス「SAKURA」であった。この時のバヤデールを改訂振付したが、今年も大学舞台美術コースの学生によるデザインおよび制作で装置を彩り、若干二十歳の学生による美術は実にみずみずしく美しい。美術だけでなく照明デザインも照明コース生によるもので、ダンサーのみならずみな若者たちでつくられ、まさに世界でひとつだけのバヤデールであった。毎年このシリーズは行っており、今回でもう6作目で今や私の楽しみのひとつとなっている。今年は大学2回生ダンサーたちのクォリティも高く、2日間公演ダブルキャストで主役ニキヤとソロルはじめバリエーションもそれぞれ持ち前の力を発揮しハイレベルな出来となった。
12月25日クリスマスに今年もくるみ割り人形全幕を上演した。「栃木・宇都宮にも毎年クリスマスシーズンにバレエくるみ割り人形を定着させたい」という舞踊家橋本陽子先生の願いから委嘱され今年で19年目を迎えた。先生ご自身のエコールドゥ・バレエがこれまで東京と宇都宮の2ヵ所であったが、東京に統合されることになり本年を持ってクリスマス公演が最後となった。19回と言っても毎回同じではなく、さまざまな振付シーンの改訂を行ってきたこともあり、今回は集大成ということになった。特に雪片のワルツから2幕ディベルティスマンが私の振付力の持ち味を発揮できる場面で毎年かなりの盛り上がりを見せる。宇都宮スタジオ生、私の教え子たちを含めたバレエダンサーたちの力がゲスト男性ダンサーとともに高いテクニックと表現力が際立っていた。
年明けの1月8日には日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックの主催公演で、「ライモンダ第3幕より祝典の場 グラン・パ・クラシック」を委嘱された。公演は神奈川県民ホールという横浜で唯一のオペラハウスで上演する。ライモンダ第3幕は主人公ライモンダと騎士ジャンヌ・ド・ブリエンの結婚式の中でさまざまな踊りが披露される場面で、この作品中のグラン・パ・クラシックとしてふたりの男女のプリンシパルと4組のソリストによって繰り広げられるオリジナル作品にコールドバレエを融合させ、随所にハンガリアン的な要素を盛り込ませ振付した。
20世紀の代表的振付家ジョージ・バランシンが若き頃ロシア帝室バレエ学校時代に踊った同作をオマージュした「Cortege Hongrois」(ハンガリアン行進曲)というバレエ作品を1973年に発表したが、その後1985年にニューヨークシティバレエ団によって復刻上演され、翌年、当時私が付属のバレエ学校在籍中にこの作品に学校公演で主演する機会に恵まれた。自分にとってバレエ「ライモンダ」はむしろこちらの印象が強く、今回の公演ではこのときのメモワールをもとにシンフォニックバレエとして再構築・改訂振付を行ったのである。バヤデールと同様自分がかつて踊ってきた思い入れのある作品でもある。ロサンゼルスバレエ団の清水健太君、NBAバレエ団の山本晴美さんをはじめプロフェッショナルダンサーたちも顔を揃え、振付を終えたあと日々の仕上げのリハーサルでも熱い視線でダンサーたちを見守っている。
今年も1年が終わろうとしている。この1年間も自身の振付作品をさまざまなところで上演させていただいた。ざっとラインナップを並べると
①「ラプソディインブルー」音楽・ガーシュイン
②「フォーシーズンズ」音楽・グラズノフ
③「ロミオとジュリエット」音楽・プロコフィエフ
(2月 大阪芸術大学卒業舞踊公演・大阪芸術大学芸術劇場)
④「ロマンシングフィールド」音楽ドヴォルザーク
⑤「バレエの情景」音楽ストラヴィンスキー
⑥「レ・シュマン」音楽プーランク
⑦「パリのよろこび」音楽オッフェンバック
(5月 堀内充バレエコレクション・東京目黒パーシモンホール)
⑧「グラズノフスィート」音楽グラズノフ
⑨「真夏の夜の夢よりスケルツォ・妖精たちの踊り」音楽メンテルスゾーン
(7月 大阪芸術大学キャンパス上演会・大阪芸術大学芸術劇場)
⑩「パリジェンヌのよろこび」音楽オッフェンバック
(8月 大阪YSバレエカンパニー公演・NHK大阪ホール)
⑪「リトルバレエ」音楽ルヴィンシュテイン他
⑫「真夏の夜の夢スケルツォ」音楽メンテルスゾーン
(9月 バレエスタジオHORIUCHI・東京目黒パーシモンホール)
⑬「カルナヴァル」音楽シューマン
⑭「レ・スィネ」音楽木村カエラ、シューベルトほか
⑮「ラ・バヤデール幻影の場」音楽ミンクス
(10月‐12月 大阪芸術大学学内舞踊公演)
⑯「Horizon\ホライゾン」音楽フェダーセル
(12月 玉川大学芸術学部演劇スタジオ)
⑰「くるみ割り人形全幕」音楽チャイコフスキー
(12月 宇都宮エコールドバレエ・栃木県宇都宮市教育文化会館)
⑱「ライモンダ第3幕祝典の場」音楽グラズノフ
(1月 日本バレエ協会関東支部神奈川ブロック公演・神奈川県民ホール)
・・・と18演目上演させてもらった。来年もさまざまな演目、そしてダンサーとの出会いを楽しみにしたい。 -
●2016年12月
いつまでも暑いと思ったらいきなり真冬の寒さになったり、例年の如く暖冬に逆戻りになったり、秋という季節がいつのまにかなくなってしまい寂しい。
かつてアメリカで5年間生活し帰国して一番故国を感じたのが四季という季節感であった。アメリカでは10月頭まで夏でそこから一気に冬になり、下旬のハロウィンや11月下旬の七面鳥を食べる感謝祭などは寒いなかの行事という印象が強い。そんななか日本の秋まつりは風情があって、いつもニューヨークにいるときは「今頃日本は秋でみんな楽しんでいるんだろうなぁ…」なんて思いふけっていたものである。今はこうして日本にいてもかつての思いはなくなってしまった気がする。でも“芸術の秋”という言葉は今はなく、1年を通してバレエやミュージカル公演が行われるようになり、触れる機会が多くなったのはいいことである。
今年も10月下旬から12月にかけて東西の大学で相次ぎ舞踊公演を行った。
まず大阪芸術大学舞踊コース卒業制作公演が10月下旬に行われた。大学4年間の研究成果を披露する場で春からずっとリハーサルを積んできた4作品が上演された。私は毎年指導という立場で携わっているが、時間と労力をかけているだけ力作が多いのに毎回ながら目を細めている。
一般の大学卒業論文とは違い、舞台芸術の世界は言葉は悪いが「○と×は紙一重…」などと言われるだけあってとても特殊で難易度の高いものだと思っている。少なくとも初期設定をしてやり、また方向性があらぬ角度を向いてしまったら是正してあげることこそ大学教員の役割だと思っている。また卒業制作とは卒業論文とは異なりひとりではなく、医学と同じように研究チームのように何十人と集まってスクラム組んで行うため、ひとつ間違えば全員が落第という悲運も抱えているからである。卒業制作としてテーマがふさわしいか判断することがまず大切で、それから時々リハーサルを傍らからみて「ここの場面は補足しないと」「舞台装置をもっと使わないと」といったアドバイスをしている。今年の作品は人間である自分自身の内面の弱さをつつかれながらもその中でも希望を見つけて生きようとする姿を主題にするものが多かった。卒業制作作品のほかに卒業メモリアルに毎年私が自分の振付作品をプレゼントしているのだが、今年はロベルト・シューマン音楽「カルナァル(邦題で謝肉祭)」を贈った。夏休みに3日間ほどで朝から晩にかけて一気に振付し、数日後には劇場で試演会までしたのだが、さすがもう私と4年の付き合いで堀内作品も4、5本踊っているためか堀内節?がわかっているだけあってトントン拍子でリハーサルが進んでしまう。こんな子たちとバレエカンパニーを構成すればバンバン作品が上演できるのになぁといつも思う。残念ながら彼女彼らたちはさまざまなバレエ団に巣立ってしまう。ボヤきはこのへんにして、本番では多くの観客が集まりカーテンコールでは惜しみない拍手が送られた。
3週間を経て今度はひとつ学年下の3回生の学内公演を行い、こちらも日本舞踊作品を含めた全4作品約1時間40分をたった13名の出演者で上演した。私の作品は「Le Sygnes(仏題で白鳥という邦題)」というタイトルでを振付した。白鳥伝説を主題に独自の解釈で迫り、ラストは白鳥の姿を思わせるバレエを展開する。この13名の女性ダンサーたちは夏に東京で同じく私の振付作品「スケルツォ」を踊り喝采を浴びたが、その時の経験を生かし、この作品でも美しく舞い、ラストシーンの湖畔を背にしたシルエット姿の思い想いのポーズを浮き上がらせ幕となった。
続いて玉川大学芸術学部舞踊系学生の1年集大成となる卒業プロジェクト舞踊公演が12月上旬に5日間にわたり町田市にある大学キャンパス内にある演劇スタジオという小劇場で上演された。ここでも公演演目最後を飾るバレエ作品を任されているのだか、8年目を迎えた今年は19名のダンサーが織り成す私の最新作「Horaizon」を振付し上演した。ドイツ人作曲家による音楽を使用し、モダンダンス技法とダンスクラシック技法をダンサーとともに分けて振付し、文字通り地平線に映される美しい人間模様の姿を主題にした。実は2ヶ月弱の短いリハーサル期間で、思うように時間が取れないこともあり、振付展開も二転三転することも多かった。でもダンサーたちはどんな時であろうとレオタードとピンクもしくは黒タイツ姿のみの姿で数時間立ちっぱなしで私と向き合い振付をもらう。私がある一方のグループに振付しているときは、もう一方のグループは休むことなく与えられたパをおさらいしたり、あるいはみんなでフォームを揃えたり余念がなく素晴らしい姿勢である。これは大阪芸術大学でも全く同じ姿勢で挑んでいるのだか、決して私からこの姿勢を強制しているわけではない。彼ら彼女たちの先輩たちが長く舞踊に対するこのような真一文字の姿を持って私に向かい、それが代々後輩に受け継がれてきたのである。私はこれこそが大学舞踊の素晴らしいところだと実感している。師と教え子、先輩と後輩といった人間関係が深く形成されているところが素晴らしいと思う。だからこそ彼女たちが卒業して何年経ってもかつて自分が踊ってきた公演に足を運ぶ。これは大学スポーツにも言え、野球やラグビー、柔道、駅伝といった試合にも同じような光景が見られる。もちろんこのような師弟関係が出来るまでにも長い歳月を必要とするが、大阪芸術大学舞踊コースで16年、玉川大学舞踊系で11年教えてきたからこそ築けたものと自負している。・・・ 相変わらず得意の横路に逸れる話をしてしまったが(実は大学の90分の講義でもそうで本題からよく逸れてしまう。学生は優しくニコニコ聞いてくれるから調子に乗ってしまうのだが。)卒業プロジェクト舞踊公演本番では19名が一体となって踊り抜き、カーテンコールでは多くの拍手を浴びていた。実は今回私はさまざまな公演や稽古が重なってしまい、本番を6回中1回しか観れなかったのだか、かつて踊ってくれた卒業生ダンサーたちが何人もかけつけてくれて、みな「観に来たのにいなかった!」「せっかく久しぶりに会うの楽しみにきたのにいないなんて…」というメッセージをたくさんいただいてしまった。こちらはただ平謝りする返事しかできなかったのだが、このような師に対する温かい愛情(勝手な思い込みもあるが・・・)がまさに大学舞踊のうれしい側面なのである。 -
●2016年11月
私はちょうどその時新国立劇場中劇場の舞台袖で自分の出番を終え、荒い息をしたままステージの方に目を向けていた。そこには次の出番でニューヨーク在住の頃から大好きだったビリー・ジョエルの「ピアノマン」の調べに乗って黒のワンピースドレスでサスペンションライトの中で鮮やかに踊る名倉加代子先生の姿があった。その美しい光景を見ながら「終わってしまったな・・・」とゲネ・本番合わせて7回にわたった舞台を振り返っていた。
11月3日から4日間、6回にわたる名倉加代子ジャズダンス公演に出演させてもらった。全公演満席に近い観客の前で22年ぶりにサン・サーンス音楽・名倉加代子先生振付による「死の舞踏」を総勢50余名の精霊役の女性ダンサーたちと踊った。冒頭に12の鐘が響き、うずくまっていたダンサー全員が甦るように立ち上がり、息つく間もなく全編を踊り抜く激しい作品であったが、稽古でも1回通すだけでフラフラになるほど振りがびっしり詰まっていた。
今回本番で一番印象に残ったのが、作品の最後で夜明けの告げとともに精霊であるダンサーたちが一斉に崩れふたたび墓に戻るように倒れてしまうところで、リードオフを務める私が、また眠りについてしまう彼女たちを必死に呼び起こそうとする場面。最後には自分も倒れて幕となるのだが、その瞬間倒れているダンサーたちのまさしく激しく踊り抜いた直後の余韻がまるで魂のように浮き上がっている空気感を感じたのである。そんな素敵な空間に包まれた瞬間が忘れられない。
また前半のプログラム最後の「サマータイム」という作品にカンパニーのプロフェッショナルジャズダンサーたちと共演させていただいた。アメリカ西海岸の夏の夕暮れを場面設定され、人々がその光景を胸に想う気持ちを舞踊化させた名倉先生の新作でもあり、さすが長年師弟関係のなかで舞踊経験を積んだダンサーたちの表現力とテクニックが素晴らしく、バレエダンサーの自分では演じきれないものがたくさんあり、リハーサルで共演ダンサーの方々からのアドバイスを受けながら学ばせていただき、素敵な振付を踊らせていただいた。終演後名倉先生からは「充君ありがとう。」という言葉をいただいた。ありがとうとは私が言わなければならない言葉で、そんな気持ちに対して感謝の気持ちに溢れた。
名倉先生は公演ではピアノ演奏によるデュエットやジャズナンバーを次々とカラフルでお洒落でダイナミックに踊り、満員の観客を沸かせていた。まさかこの20年間ふたたび袖から先生の輝く踊りを見守るなんて想像しなかっただけに私にとっても今年1年のベストとなる思い出になった。
この最高峰のジャズダンス公演にお越しいただいた方々にあらためてお礼申し上げます。
(Dance Square http://www.dance-square.jp/nk1.html) -
●2016年10月
ジャズダンスといえば私にとっては子どもの頃から馴染み深いジャンルで、一言でセンス良くて格好がいい踊りで、バレエに相反するというか、拮抗したものというイメージがずっとあった。父親が長く舞踊界で活躍したなかでも、バレエ作品と同時にジャズダンスを融合させたジャズバレエ作品も多く残した。彼はニューヨークに1年間研修しジャズダンス界の巨匠ルイジのもとでダンステクニックを学び、帰国してからは以前よりもジャズダンスに傾倒してわれわれ家族が驚いたことを覚えている。ユニークバレエシアターも当時は朝のカンパニーレッスンは月水金はバレエクラス、火木土はジャズダンスクラスであった。父親の代表作であった「ジャズ・コンチェルト」は私もローザンヌ国際バレエコンクール受賞記念公演でも踊った思い出深き作品である。そんな経緯があり、ジャズダンスは私にとってはむしろバレエの姉妹芸術であるモダンダンスより身近であった。
名倉加代子先生はジャズダンス界最高峰の舞踊家で、ジャズダンス通の私も?存じ上げていて定期的に行われていた青山劇場公演にもバレエ団の先輩に連れて行かれ観に行ったり、あるいは振付されている宝塚歌劇やミュージカルの公演にも足を運んでいた。洗練されスタイリッシュで脚線美に溢れたダンステクニックは魅力的でいつも観終えるたびにため息が出るほど美しさに満ちていた。
そんな憧れのなか1996年に名倉加代子先生から「充君、私の公演に出てくださらない?」と青山劇場舞踊チーフプロデューサーをとおして声をかけていただいたのだ。その頃名倉加代子先生は何度か私の舞台ものぞきに来ていただいたことを覚えているが、さすがに目に留めていただけたことはとてもうれしかった。
公演は毎回2部構成で、1部は60分ほどのストーリーあるダンスドラマ作品で、2部はオムニバス形式で10数曲からなる作品集であった。出演させていただいた公演では、<ある青年がダンスをすることを夢みて都会に出て来ながら、街の行き交う人々の冷たさに失望したあまり、交通事故で命を落としてしまう。そして彼が天国で舞踊教師であった神父(橋浦勇先生)と出会いその神父が青年の夢を叶えさせようとふたりでふたたび地上へ降り、舞台で主役を得て脚光を浴びる> ロマン溢れる作品で、クラシック音楽からジャズ音楽で綴った素敵な1幕ものであった。私はその青年役を踊らせていただいたが、私のロール(役の意)以外はもちろんジャズダンス手法で80名以上のジャズダンサーの踊りは圧巻。クライマックスのブロードウェイショーではサン・サーンス音楽「死の舞踏」を上演するのだが、そのダンサーたち総勢と踊り抜く瞬間はいつも苛酷で文字どおりタイトルそのもので踊り終えた直後は舞台上で吐きそうで固まってしまったことを覚えている。「充君の代表作になったらうれしいわ」といつも話してくれた言葉は優しく忘れられない。作品では踊り終えたあとはまた天国に戻り雲の上で満身創痍のまま倒れているのだが、名倉先生の優しさそのままが振付に表され、カンパニーメンバーの15名ほどのミューズの女性ダンサーたちが私を囲んで揺り起こし、最後に踊りを共にするシーンがとても心地よく温もりがこれまた忘れられない。
2部ではオムニバスで、「充君、私と踊って下さらない?」と言ってくださり、素敵なジャズを踊らせていただいたが、先生は真っ白のジャケットスーツで現れ、その姿はまるで月の神アルテミスのように輝いていてとても素敵な瞬間を踊り舞台上で共有させてもらった。こうしてかけがえのない6回公演にわたる舞台に出演させていただき、カーテンコールでも抱きしめてくださり、終演後「いつかまた必ずご一緒しましょう」と言ってくださり公演は幕を閉じた。
歳月は流れ、今は2016年、あれから私は名倉先生と出会う前の頃に戻り、毎年ジャズダンス公演は客席で昔と同じようにため息まじりに作品やダンサーの美しさに見とれながらいつも観させていただいていた。あまりにも月日が経っているので、公演を観ているときにたまに、あの時の天国から舞い降りた青年役のように「あれは本当に夢を叶えさせてもらえた白昼夢だったんだなぁ」なんて想いふけたりもしていた。
と、ところが、である。来月11月上旬に新国立劇場で行われる公演にふたたび名倉先生から「充君、キャンスト(公演タイトルの愛称)にまた出て下さらない?」と声がかかったのである。それも「あなたの代表作をもう1度踊ってもらいたいのよ」と。自分でもあまりの驚きと嬉しさに高揚感をおさえきれなかった。この20年間名倉先生のあの時の別れの言葉を疑うことなく信じてきたが、まさに約束を果たしてくれたのである。偉大な舞踊家の姿勢とはまさに真性なる気持ちなのだとあらためて感じた。今回はかつてのダンスドラマは上演しないが、舞踊劇中のあの「死の舞踏」を踊らせてもらうことになった。自分の持てる力をすべて出すつもりでのぞもうと、現在再び名倉先生のスタジオに通いリハーサルしている。
ぜひみなさま観にお越し下さればと思います。
★名倉ジャズダンススタジオ第22回公演 「CAN’T STOP DANCIN’2016」 -
●2016年9月
9月22日、目黒パーシモンホールでかつて私の父が主宰したユニークバレエシアターの後身であるバレエスタジオHORIUCHI主催のバレエコンサートがあった。こどもから大人まで日頃のレッスンの成果を披露するエントリー型の舞台だが、このバレエコンサートで私のひとつの念願が叶えることができた。以前ずいぶん前だがこのコラムで触れたことがあるのだが、私がつとめる大阪芸術大学舞踊コースのバレエダンサーと玉川大学パフォーミングアーツ学科舞踊系のバレエダンサーが共演を果たしたのである。
たまたま両大学とも毎年行っている学外公演が開催されない事情となり、毎年のなか今年該当してしまった在学生である彼女たちが大学の外で踊る機会がないというのは不運で何とかしてあげたいという主任教員の立場からの想いで、自分自身のバレエスタジオではあるが舞台に立つ機会を設けようということになった。どちらも私の振付作品を出品させてもらったが、大阪芸術大学3回生13名と玉川大学芸術学部生3年生5名は前日の通し稽古で初めて顔を合わせ、一緒にバーレッスンをした。いつも毎週火曜日玉川大学、水曜日から金曜日大阪芸術大学で日頃レッスンをしていながら、東京と大阪ということもあり、まず両大学生が顔を合わす機会などなく、大学で教えて10年以上経つがこの合同レッスンは(ただの私事なのだが)画期的で記念すべき瞬間でもあったのだ。レッスン後はお互いのリハーサルにも立ち会い、終了後は私の企画で交歓夕食会までひらき、親交を深めることができた。
翌日の本番はみな綺麗で気迫ある踊りを東京の観客に披露して多くの拍手を受けていた。
この瞬間が彼女たちにの将来にとって実りあるものになることを願いながら私も客席で見守らせてもらった。 -
●2016年8月
夏になるとバレエ界で賑やかになるのはバレエコンクールで、シーズン到来とばかりに全国各地ではバレエコンクール一色になる。SNSでも若い子たちは「コンクール出場!」とアップし、現役ダンサーどころか元ダンサーで審査員となった方々までもが「審査しました!」と自ら嬉しそうに載せている。まさにバレエ愛好大国だが、かくいう私もこの夏3つのバレエ・ダンスコンクールの審査を務め肩書きに「審査員」が加わってしまうのではないかと思えてしまうほどの奔走ぶりであった。
私のバレエコンクール歴も今の子たちほどではないが、国内で最も長い歴史を誇る東京新聞主催全国舞踊コンクールに中学・高校時代に3回出場し、3位、3位、2位という成績を残したが、いちばんのコンクールにまつわる思い出は4年間にわたり2度出場したローザンヌ国際バレエコンクールもそうだが、モスクワ・ボリショイバレエ団の本拠地であるボリショイ劇場で2週間に渡り繰り広げられた第4回モスクワ国際バレエコンクールが深く印象に残る。
私は高校生のときはバレエ少年おたくといっていいほど、バレエに関する雑誌、本はすべて読みあさり、週末になるとどこかしらの劇場に出没して公演を見まくっていた。ときにはひとりで関西にも出向くほどだったので国際コンクールについてもリサーチ済みで中学時代からローザンヌとモスクワ国際バレエコンクールに出場することが夢でもあった。
モスクワコンクールは1981年6月に行われたが、両親のサポートのおかげで前年の冬に足ならしのためにロシアを訪れモスクワのクラシックアンサンブルバレエ団やサンクトペテルブルグのキーロフバレエ団のカンパニークラスを受けさせてもらった。何しろ30年以上前の話である。当時ヤポンスキ(日本のロシア語訳)のバレエ少年がやってきたと聞いただけでソビエトバレエ関係者はめずらしがってどこへ行ってもこの私をかわいがって?引っ張りだこで連れまわしてくれたのであった。中でも国立キーロフバレエ団のカンパニークラスにはさすがに興奮した。偉大な伝説の男性ダンサー、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフたち出身のバレエ劇場のリハーサル室で、しかも彼らが若き頃の写真集で見た光景のなかでのレッスンは忘れられない(後にこのふたりとはニューヨークで出会うことになるのだが)。みんな自分よりひとまわりもふたまわりも上の世代のダンサーであったが、当時このバレエ少年が観に行ったキーロフバレエ団東京公演で「眠りの森の美女全幕」で王子を踊った男性ダンサーもいてレッスン後駆け寄ったら笑顔で握手してくれたことがうれしい思い出であった。
モスクワ国際バレエコンクールの話に戻すとこのコンクールがなぜ世界一のコンクールかというと、4年に1回の開催であり、予選から決選まですべて国立ボリショイ劇場主催で、しかもボリショイバレエ劇場オーケストラによる生演奏で行われるからでもあった。予選前にはオーケストラ合わせの舞台リハーサルがあり、指揮者とテンポの打ち合わせまでするのである。
その時にアクシデントがあった。バリエーションは決選までにすべて違う6曲を用意しなければならず、予選はまず通らなければメダルにも届かないので最も得意なパキータの男性バリエーションで臨んだが、リハーサルのときにプレバレーションをして、さあ袖から出ようとしたら別の音楽が始まってしまったのである。後からわかったことなのだが、日本でスミラフィル・メッセレル女史からいただいた振付はキーロフのもので、ボリショイバレエ団バージョンとは別のものであった。私は「ニエット!(違う)」と言ってオーケストラピットに降りて自分のバージョンの音楽をピアノで弾いて説明した。その時は必死になっていたのだか、弾き終わると楽団員から拍手喝采を受けてしまった。そこでロシア人と初めて交流したような温かい雰囲気になったことを覚えている。音楽の力は言語を超える力を持つことを感じた瞬間でもあった。
またコンクール本番までは市内にあるボリショイバレエ学校に移動しスクールのスタジオでひとりあるいはパドドゥひと組ずつ1スタジオをリハーサルのために割り当てられた。学校には16スタジオあるから充分に間に合うことも驚きだが、もっと驚いたのが、ビアニストまでついてきたことだ。最初は「すごい!さすがバレエ大国…」なんて感じていたが、30年前のことでもあるが、その当時バレエスタジオにも音響設備などあるはずもなくグランドピアノだけ。つまりバレエは歴史は古くもともとは音楽はすべて本番も稽古も器楽演奏によるものであったことの古くから伝わる伝統芸術の証で、それがずっとフランスやロシアでは現在でもルーツがそのまま自然に受け継がれている。
なぜバレエはレッスンのときは生演奏なのだろうかと日本人は感じるひとが多い。「生で感じる音が踊りには大切なのよ…」などと理由づけるひとを聞いたことがあったがそんなことではなかったのだ。伝統文化である重みを本場で感じた貴重な体験であった。こうして大会が始まるまでの数日間、その時は師である父とダンサーの私、そして男性ビアニストの3人だけでレッスンからバリエーションのリハーサルまでじっくり出来、また劇場内にある練習用舞台まで(300名収容の中ホール)使わせていただき、コンクールに向けて高揚感とともに最高の準備となった。
コンクールは結果は決選までいき、男性部門で第3位銅賞をいただいた。メダルを受賞したのは日本人男性では史上3人目で10代での受賞は初めてであった。今ではこのコンクールでも日本人をはじめ多くの東洋人が受賞している。ただ一番このコラムで書きたかったことは、自分の結果ではなくコンクールというものがどれだけバレエが権威のあるものであるかということを気づかせてくれたことである。
当時世界最高峰のバレエの殿堂ボリショイ劇場で「さあ踊るぞ!」と前奏が始まりソッテをして舞台に出て客席に向かってポーズを取ったときである。目の前の客席側の光景のあまりの美しさに一瞬踊ることを忘れるほど呆然としてしまったのだ…。なぜなら劇場の豪華なシャンデリアの輝き、オーケストラピットの沢山の譜面台のあかり、マエストロの存在、そして何よりもボリショイバレエ団グリゴロビッチ芸術監督、名花マヤ・プリセスカヤ、アメリカ人振付家ロバート・ジョフリーをはじめ20人近くいた審査員席ひとりひとりの前にあった審査用のキャンドルライトすべての輝きが、まるで教会のミサのような厳然な雰囲気を醸し出していたのである。ちょうど開会式のあとということもあり、客席も満席でドレスアップされた観客たちに見守られ、そのなかでバレエを踊った瞬間が忘れられない。これまでの人生のなかで踊ってきた舞台空間とあまりにもかけ離れた絢爛な光景であった。踊り終えたあともブラボーというカーテンコールの声もロシア語訛りで美しかった。また4階あたりのバルコニー両サイドから薔薇が何輪も投げられ、それを拾いレベランスをするのである。今でいうフィギュアスケートのカーテンコールで投げられる花と一緒である。袖に入り興奮おさまらないという気持ちより、バレエがこれ程までに高みある芸術であったのかということが驚きで胸に突き刺さり、自分のこれまでのバレエ観の愚かさを悔やんだ。私はこのコンクールで得たさまざまな経験をとおしてクラシックバレエの尊厳を10代半ばで知ることができ、その時にこの素晴らしき芸術と一生ともに歩んでいこうと心に誓ったのである。
世界でもっともバレエコンクールが盛んな国となった今、ただ興行として主催者の思惑で実施されることにうんざりする。あのモスクワのコンクールは今は知らないが当時なんと参加費はタダであった。まさにクラシックバレエの国際的普及のために行われたのである。今後のコンクールの在り方についてもぜひこのコラムを読んで考えていただきたい。 -
●2016年7月・・・おまけ
コンクールを終え日本に帰国する際、ひとりの若い男性ダンサーが私のところにやってきて「おめでとう」と言って一冊の絵本を笑顔で手渡してくれた。それはボリショイ劇場の歴史を綴った素敵なものであった。私は彼に何度も”スパシーバ”と御礼を言い、かたい握手を交わした。
数年後、ボリショイバレエ団東京公演「白鳥の湖」を観に客席にいた私は王子が出てきた時に目を疑った。
プリンシパルダンサー、ヴァシュチェンコで、私に絵本をくれた彼であった。