2016年8月

 夏になるとバレエ界で賑やかになるのはバレエコンクールで、シーズン到来とばかりに全国各地ではバレエコンクール一色になる。SNSでも若い子たちは「コンクール出場!」とアップし、現役ダンサーどころか元ダンサーで審査員となった方々までもが「審査しました!」と自ら嬉しそうに載せている。まさにバレエ愛好大国だが、かくいう私もこの夏3つのバレエ・ダンスコンクールの審査を務め肩書きに「審査員」が加わってしまうのではないかと思えてしまうほどの奔走ぶりであった。

 私のバレエコンクール歴も今の子たちほどではないが、国内で最も長い歴史を誇る東京新聞主催全国舞踊コンクールに中学・高校時代に3回出場し、3位、3位、2位という成績を残したが、いちばんのコンクールにまつわる思い出は4年間にわたり2度出場したローザンヌ国際バレエコンクールもそうだが、モスクワ・ボリショイバレエ団の本拠地であるボリショイ劇場で2週間に渡り繰り広げられた第4回モスクワ国際バレエコンクールが深く印象に残る。
 私は高校生のときはバレエ少年おたくといっていいほど、バレエに関する雑誌、本はすべて読みあさり、週末になるとどこかしらの劇場に出没して公演を見まくっていた。ときにはひとりで関西にも出向くほどだったので国際コンクールについてもリサーチ済みで中学時代からローザンヌとモスクワ国際バレエコンクールに出場することが夢でもあった。
 モスクワコンクールは1981年6月に行われたが、両親のサポートのおかげで前年の冬に足ならしのためにロシアを訪れモスクワのクラシックアンサンブルバレエ団やサンクトペテルブルグのキーロフバレエ団のカンパニークラスを受けさせてもらった。何しろ30年以上前の話である。当時ヤポンスキ(日本のロシア語訳)のバレエ少年がやってきたと聞いただけでソビエトバレエ関係者はめずらしがってどこへ行ってもこの私をかわいがって?引っ張りだこで連れまわしてくれたのであった。中でも国立キーロフバレエ団のカンパニークラスにはさすがに興奮した。偉大な伝説の男性ダンサー、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフたち出身のバレエ劇場のリハーサル室で、しかも彼らが若き頃の写真集で見た光景のなかでのレッスンは忘れられない(後にこのふたりとはニューヨークで出会うことになるのだが)。みんな自分よりひとまわりもふたまわりも上の世代のダンサーであったが、当時このバレエ少年が観に行ったキーロフバレエ団東京公演で「眠りの森の美女全幕」で王子を踊った男性ダンサーもいてレッスン後駆け寄ったら笑顔で握手してくれたことがうれしい思い出であった。
 モスクワ国際バレエコンクールの話に戻すとこのコンクールがなぜ世界一のコンクールかというと、4年に1回の開催であり、予選から決選まですべて国立ボリショイ劇場主催で、しかもボリショイバレエ劇場オーケストラによる生演奏で行われるからでもあった。予選前にはオーケストラ合わせの舞台リハーサルがあり、指揮者とテンポの打ち合わせまでするのである。
 その時にアクシデントがあった。バリエーションは決選までにすべて違う6曲を用意しなければならず、予選はまず通らなければメダルにも届かないので最も得意なパキータの男性バリエーションで臨んだが、リハーサルのときにプレバレーションをして、さあ袖から出ようとしたら別の音楽が始まってしまったのである。後からわかったことなのだが、日本でスミラフィル・メッセレル女史からいただいた振付はキーロフのもので、ボリショイバレエ団バージョンとは別のものであった。私は「ニエット!(違う)」と言ってオーケストラピットに降りて自分のバージョンの音楽をピアノで弾いて説明した。その時は必死になっていたのだか、弾き終わると楽団員から拍手喝采を受けてしまった。そこでロシア人と初めて交流したような温かい雰囲気になったことを覚えている。音楽の力は言語を超える力を持つことを感じた瞬間でもあった。
 またコンクール本番までは市内にあるボリショイバレエ学校に移動しスクールのスタジオでひとりあるいはパドドゥひと組ずつ1スタジオをリハーサルのために割り当てられた。学校には16スタジオあるから充分に間に合うことも驚きだが、もっと驚いたのが、ビアニストまでついてきたことだ。最初は「すごい!さすがバレエ大国…」なんて感じていたが、30年前のことでもあるが、その当時バレエスタジオにも音響設備などあるはずもなくグランドピアノだけ。つまりバレエは歴史は古くもともとは音楽はすべて本番も稽古も器楽演奏によるものであったことの古くから伝わる伝統芸術の証で、それがずっとフランスやロシアでは現在でもルーツがそのまま自然に受け継がれている。
 なぜバレエはレッスンのときは生演奏なのだろうかと日本人は感じるひとが多い。「生で感じる音が踊りには大切なのよ…」などと理由づけるひとを聞いたことがあったがそんなことではなかったのだ。伝統文化である重みを本場で感じた貴重な体験であった。こうして大会が始まるまでの数日間、その時は師である父とダンサーの私、そして男性ビアニストの3人だけでレッスンからバリエーションのリハーサルまでじっくり出来、また劇場内にある練習用舞台まで(300名収容の中ホール)使わせていただき、コンクールに向けて高揚感とともに最高の準備となった。
 コンクールは結果は決選までいき、男性部門で第3位銅賞をいただいた。メダルを受賞したのは日本人男性では史上3人目で10代での受賞は初めてであった。今ではこのコンクールでも日本人をはじめ多くの東洋人が受賞している。ただ一番このコラムで書きたかったことは、自分の結果ではなくコンクールというものがどれだけバレエが権威のあるものであるかということを気づかせてくれたことである。
 当時世界最高峰のバレエの殿堂ボリショイ劇場で「さあ踊るぞ!」と前奏が始まりソッテをして舞台に出て客席に向かってポーズを取ったときである。目の前の客席側の光景のあまりの美しさに一瞬踊ることを忘れるほど呆然としてしまったのだ…。なぜなら劇場の豪華なシャンデリアの輝き、オーケストラピットの沢山の譜面台のあかり、マエストロの存在、そして何よりもボリショイバレエ団グリゴロビッチ芸術監督、名花マヤ・プリセスカヤ、アメリカ人振付家ロバート・ジョフリーをはじめ20人近くいた審査員席ひとりひとりの前にあった審査用のキャンドルライトすべての輝きが、まるで教会のミサのような厳然な雰囲気を醸し出していたのである。ちょうど開会式のあとということもあり、客席も満席でドレスアップされた観客たちに見守られ、そのなかでバレエを踊った瞬間が忘れられない。これまでの人生のなかで踊ってきた舞台空間とあまりにもかけ離れた絢爛な光景であった。踊り終えたあともブラボーというカーテンコールの声もロシア語訛りで美しかった。また4階あたりのバルコニー両サイドから薔薇が何輪も投げられ、それを拾いレベランスをするのである。今でいうフィギュアスケートのカーテンコールで投げられる花と一緒である。袖に入り興奮おさまらないという気持ちより、バレエがこれ程までに高みある芸術であったのかということが驚きで胸に突き刺さり、自分のこれまでのバレエ観の愚かさを悔やんだ。私はこのコンクールで得たさまざまな経験をとおしてクラシックバレエの尊厳を10代半ばで知ることができ、その時にこの素晴らしき芸術と一生ともに歩んでいこうと心に誓ったのである。

 世界でもっともバレエコンクールが盛んな国となった今、ただ興行として主催者の思惑で実施されることにうんざりする。あのモスクワのコンクールは今は知らないが当時なんと参加費はタダであった。まさにクラシックバレエの国際的普及のために行われたのである。今後のコンクールの在り方についてもぜひこのコラムを読んで考えていただきたい。

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