2016年7月

 5月のゴールデンウィークの頃の話に戻るが、松山バレエ団公演「ロミオとジュリエット」全幕を観る機会に恵まれた。バレエ団の清水哲太郎総監督から声をかけていただきお誘いいただいた。舞台は美術・装置が豪華絢爛で出演者も多彩で、演出も造詣が深く、主演の森下洋子さんが可憐で期待を超えた出来栄えであった。なぜ日本バレエ界の礎を築いた方から声をかけていただいたかというと話はかなり昔にさかのぼる…。

 清水哲太郎先生は少年の頃の憧れの男性ダンサーのひとりであった。私が中学・高校生の頃の日本のバレエ界はどこも活気に満ちていた。牧阿佐美バレエ団、東京バレエ団、松山バレエ団、スターダンサーズバレエ団、東京シティバレエ団、そして父の主宰するユニークバレエシアターといった東京を本拠地とする各バレエ団はオペラ、バレエを主とする第二国立劇場立ち上げに向けて我こそがそこで明日を担うバレエ団だという気概で存在感を示し、それが切磋琢磨されよい刺激になっていた気がする。
 私がバレエを始めて最初に憧れたダンサーは当時父の一番弟子であった金森勢先生で、その後牧阿佐美先生のもとで指導を受けるようになってからは三谷恭三さん、今村博明さん、池亀典保さん、さらにさまざまな公演に観に出かけるようになってパイオニア的存在の深川秀夫先生、ドラマティックなダンサー堀登さん、海外帰りの篠原聖一さん、中島伸欣さんといった気鋭で大人の香りに満ちた男性ダンサーに惹かれた。その後それら先輩ダンサーたちとは私の一途な気持ちが通じた?のか同じ舞台に立つ機会にも恵まれ今も親交が続いている。
 ただ清水哲太郎先生とは同じ作品で舞台に立つことは結局一度もなかった。彼は松山バレエ団の芸術監督を務め、全幕バレエをすべて自分で演出・振付・主演をこなす舞踊家で当時国内で最高のバレエダンサーであった。初めて観たのが「コッペリア」全幕の主人公フランツ役で溌剌とした踊りで、男性のパ(技)でレヴォルヴァーというジャンプを国内で初めてマスターして観客に披露したことを鮮明に覚えている。またくるみ割り人形全幕でも独特の雰囲気を醸し出した素敵な王子は忘れられない。その中でも森下洋子さんと踊ったミハイル・フォーキン振付の「薔薇の精」の観に行ったときの深い表現力が脳裏に焼きつき離れず、私がローザンヌバレエコンクールで受賞してニューヨークへ行く直前の国内最後のユニークバレエシアター公演で「薔薇の精」を選び、その演出・振付・指導を思いきってあつかましくも父を通して哲太郎先生にお願いしたことがあった。彼は忙しいなか快く引き受けてくれて毎回厳しくリハーサルをしてくれた。たまに松山バレエ団のカンパニークラスまで受けさせてもらい、その時はいつもバーは隣り合わせで立ってくれて、まるで兄のように接してくれてありがたかった。そして何と本番ではメイクまでしてくれたのには感激した。哲太郎先生は長く北京舞踊学院に留学されていたこともあり、舞台メイクはとても東洋的で素敵で今でも忘れられない。リハーサル以外でも気さくに話しかけてくれて「おい充、ガールフレンドはいるのか?」とかそんな話題まで口にしてくれ人間味のあるよき兄貴的存在でもあった。本番は2日間にわたり、初日の出来は力みすぎてひどく叱られこちらも落ち込んだが、2日目はダメ出しを受けて素直に直し踊ったら「昨日と全然違うじゃないか」と手放しで褒めていただけたのがとても嬉しく、今でもあの時の笑顔が忘れられない。実は彼も私が留学したニューヨークのスクール・オブ・アメリカンバレエに留学した経験があり、のちに私の師となったデンマーク人名教師スタンリー・ウィリアムズ先生のもとで研鑽を積んでおられていた。
 あの時の出会いは今思うとたいへん貴重なものであった。「いつしかアメリカから戻ったら哲太郎先生のもとでバレエがしたい…」と思いめぐらすようにもなっていたことを覚えている。しかし人生とは儚いこともたくさんある。私のひとつちがいで前年に同じローザンヌ賞を受賞した貞松正一郎君がロイヤルバレエスクールに留学し、周囲では私とライバル関係的に見られていた存在でもあった。そんな彼が私がニューヨーク入りしたあとに、ロンドンの帰りに現れ「充君、僕はこれから松山バレエ団に入って哲太郎さんのもとで頑張るからね」と言い残して帰国していった。その時何だか椅子取りゲームに破れたような感覚にもなったことも遠因なのか、その後哲太郎先生と一緒になる機会はやって来なかった。
 ただその10年後私がバレエ界を席巻して大活躍した(あくまでも勝手な思いこみだが)頃、1年でもっとも活躍したダンサーに贈られるグローバル森下洋子・清水哲太郎賞という賞をいただいた。この賞は双子の兄の元や親友の熊川哲也君、ローザンヌ賞同期の吉田都さん、高部尚子さんが受賞されている誉れ高き賞で、哲太郎先生自ら私を選考したとあとから聞き、あの時以来何も恩返しをしていない無礼を恥じ感謝の念にたえなかった。
 長い話となったが、実はこの5月はそれ以来の再会でもあった。終演後私は舞台袖を通され、彼と久々の対面を果たし「おーい!充!」と強く手を握りしめ、しばらく離してくれなかった。その握りしめた感触が本当にうれしく、その時の笑顔はまさにあの薔薇の精で褒めていただいた時の顔そのものであった。

 今西麻布にある私のバレエスタジオHORIUCHIの壁には天使の彫刻が張られている。今から30年前、私が踊った薔薇の精の上演の際、舞台美術を担当していただいたのが名匠朝倉摂さんで、あの有名な薔薇の精が現れるシーンでなくてはならない舞台装置である窓の縁に飾られていたものである。清水哲太郎先生にはいまだにあのときの恩返しは出来ていないのだが、私が舞踊人生のなかでももっとも大切な舞台であった証として残し、そこで今なお私は舞踊活動を続けているのである。

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