堀内 充の時事放談

バレエダンサー・振付家・大学教授として活動を続ける堀内充の公演案内です。
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●2016年8月
夏になるとバレエ界で賑やかになるのはバレエコンクールで、シーズン到来とばかりに全国各地ではバレエコンクール一色になる。SNSでも若い子たちは「コンクール出場!」とアップし、現役ダンサーどころか元ダンサーで審査員となった方々までもが「審査しました!」と自ら嬉しそうに載せている。まさにバレエ愛好大国だが、かくいう私もこの夏3つのバレエ・ダンスコンクールの審査を務め肩書きに「審査員」が加わってしまうのではないかと思えてしまうほどの奔走ぶりであった。
私のバレエコンクール歴も今の子たちほどではないが、国内で最も長い歴史を誇る東京新聞主催全国舞踊コンクールに中学・高校時代に3回出場し、3位、3位、2位という成績を残したが、いちばんのコンクールにまつわる思い出は4年間にわたり2度出場したローザンヌ国際バレエコンクールもそうだが、モスクワ・ボリショイバレエ団の本拠地であるボリショイ劇場で2週間に渡り繰り広げられた第4回モスクワ国際バレエコンクールが深く印象に残る。
私は高校生のときはバレエ少年おたくといっていいほど、バレエに関する雑誌、本はすべて読みあさり、週末になるとどこかしらの劇場に出没して公演を見まくっていた。ときにはひとりで関西にも出向くほどだったので国際コンクールについてもリサーチ済みで中学時代からローザンヌとモスクワ国際バレエコンクールに出場することが夢でもあった。
モスクワコンクールは1981年6月に行われたが、両親のサポートのおかげで前年の冬に足ならしのためにロシアを訪れモスクワのクラシックアンサンブルバレエ団やサンクトペテルブルグのキーロフバレエ団のカンパニークラスを受けさせてもらった。何しろ30年以上前の話である。当時ヤポンスキ(日本のロシア語訳)のバレエ少年がやってきたと聞いただけでソビエトバレエ関係者はめずらしがってどこへ行ってもこの私をかわいがって?引っ張りだこで連れまわしてくれたのであった。中でも国立キーロフバレエ団のカンパニークラスにはさすがに興奮した。偉大な伝説の男性ダンサー、ルドルフ・ヌレエフやミハイル・バリシニコフたち出身のバレエ劇場のリハーサル室で、しかも彼らが若き頃の写真集で見た光景のなかでのレッスンは忘れられない(後にこのふたりとはニューヨークで出会うことになるのだが)。みんな自分よりひとまわりもふたまわりも上の世代のダンサーであったが、当時このバレエ少年が観に行ったキーロフバレエ団東京公演で「眠りの森の美女全幕」で王子を踊った男性ダンサーもいてレッスン後駆け寄ったら笑顔で握手してくれたことがうれしい思い出であった。
モスクワ国際バレエコンクールの話に戻すとこのコンクールがなぜ世界一のコンクールかというと、4年に1回の開催であり、予選から決選まですべて国立ボリショイ劇場主催で、しかもボリショイバレエ劇場オーケストラによる生演奏で行われるからでもあった。予選前にはオーケストラ合わせの舞台リハーサルがあり、指揮者とテンポの打ち合わせまでするのである。
その時にアクシデントがあった。バリエーションは決選までにすべて違う6曲を用意しなければならず、予選はまず通らなければメダルにも届かないので最も得意なパキータの男性バリエーションで臨んだが、リハーサルのときにプレバレーションをして、さあ袖から出ようとしたら別の音楽が始まってしまったのである。後からわかったことなのだが、日本でスミラフィル・メッセレル女史からいただいた振付はキーロフのもので、ボリショイバレエ団バージョンとは別のものであった。私は「ニエット!(違う)」と言ってオーケストラピットに降りて自分のバージョンの音楽をピアノで弾いて説明した。その時は必死になっていたのだか、弾き終わると楽団員から拍手喝采を受けてしまった。そこでロシア人と初めて交流したような温かい雰囲気になったことを覚えている。音楽の力は言語を超える力を持つことを感じた瞬間でもあった。
またコンクール本番までは市内にあるボリショイバレエ学校に移動しスクールのスタジオでひとりあるいはパドドゥひと組ずつ1スタジオをリハーサルのために割り当てられた。学校には16スタジオあるから充分に間に合うことも驚きだが、もっと驚いたのが、ビアニストまでついてきたことだ。最初は「すごい!さすがバレエ大国…」なんて感じていたが、30年前のことでもあるが、その当時バレエスタジオにも音響設備などあるはずもなくグランドピアノだけ。つまりバレエは歴史は古くもともとは音楽はすべて本番も稽古も器楽演奏によるものであったことの古くから伝わる伝統芸術の証で、それがずっとフランスやロシアでは現在でもルーツがそのまま自然に受け継がれている。
なぜバレエはレッスンのときは生演奏なのだろうかと日本人は感じるひとが多い。「生で感じる音が踊りには大切なのよ…」などと理由づけるひとを聞いたことがあったがそんなことではなかったのだ。伝統文化である重みを本場で感じた貴重な体験であった。こうして大会が始まるまでの数日間、その時は師である父とダンサーの私、そして男性ビアニストの3人だけでレッスンからバリエーションのリハーサルまでじっくり出来、また劇場内にある練習用舞台まで(300名収容の中ホール)使わせていただき、コンクールに向けて高揚感とともに最高の準備となった。
コンクールは結果は決選までいき、男性部門で第3位銅賞をいただいた。メダルを受賞したのは日本人男性では史上3人目で10代での受賞は初めてであった。今ではこのコンクールでも日本人をはじめ多くの東洋人が受賞している。ただ一番このコラムで書きたかったことは、自分の結果ではなくコンクールというものがどれだけバレエが権威のあるものであるかということを気づかせてくれたことである。
当時世界最高峰のバレエの殿堂ボリショイ劇場で「さあ踊るぞ!」と前奏が始まりソッテをして舞台に出て客席に向かってポーズを取ったときである。目の前の客席側の光景のあまりの美しさに一瞬踊ることを忘れるほど呆然としてしまったのだ…。なぜなら劇場の豪華なシャンデリアの輝き、オーケストラピットの沢山の譜面台のあかり、マエストロの存在、そして何よりもボリショイバレエ団グリゴロビッチ芸術監督、名花マヤ・プリセスカヤ、アメリカ人振付家ロバート・ジョフリーをはじめ20人近くいた審査員席ひとりひとりの前にあった審査用のキャンドルライトすべての輝きが、まるで教会のミサのような厳然な雰囲気を醸し出していたのである。ちょうど開会式のあとということもあり、客席も満席でドレスアップされた観客たちに見守られ、そのなかでバレエを踊った瞬間が忘れられない。これまでの人生のなかで踊ってきた舞台空間とあまりにもかけ離れた絢爛な光景であった。踊り終えたあともブラボーというカーテンコールの声もロシア語訛りで美しかった。また4階あたりのバルコニー両サイドから薔薇が何輪も投げられ、それを拾いレベランスをするのである。今でいうフィギュアスケートのカーテンコールで投げられる花と一緒である。袖に入り興奮おさまらないという気持ちより、バレエがこれ程までに高みある芸術であったのかということが驚きで胸に突き刺さり、自分のこれまでのバレエ観の愚かさを悔やんだ。私はこのコンクールで得たさまざまな経験をとおしてクラシックバレエの尊厳を10代半ばで知ることができ、その時にこの素晴らしき芸術と一生ともに歩んでいこうと心に誓ったのである。
世界でもっともバレエコンクールが盛んな国となった今、ただ興行として主催者の思惑で実施されることにうんざりする。あのモスクワのコンクールは今は知らないが当時なんと参加費はタダであった。まさにクラシックバレエの国際的普及のために行われたのである。今後のコンクールの在り方についてもぜひこのコラムを読んで考えていただきたい。 -
●2016年7月・・・おまけ
コンクールを終え日本に帰国する際、ひとりの若い男性ダンサーが私のところにやってきて「おめでとう」と言って一冊の絵本を笑顔で手渡してくれた。それはボリショイ劇場の歴史を綴った素敵なものであった。私は彼に何度も”スパシーバ”と御礼を言い、かたい握手を交わした。
数年後、ボリショイバレエ団東京公演「白鳥の湖」を観に客席にいた私は王子が出てきた時に目を疑った。
プリンシパルダンサー、ヴァシュチェンコで、私に絵本をくれた彼であった。 -
●2016年7月
5月のゴールデンウィークの頃の話に戻るが、松山バレエ団公演「ロミオとジュリエット」全幕を観る機会に恵まれた。バレエ団の清水哲太郎総監督から声をかけていただきお誘いいただいた。舞台は美術・装置が豪華絢爛で出演者も多彩で、演出も造詣が深く、主演の森下洋子さんが可憐で期待を超えた出来栄えであった。なぜ日本バレエ界の礎を築いた方から声をかけていただいたかというと話はかなり昔にさかのぼる…。
清水哲太郎先生は少年の頃の憧れの男性ダンサーのひとりであった。私が中学・高校生の頃の日本のバレエ界はどこも活気に満ちていた。牧阿佐美バレエ団、東京バレエ団、松山バレエ団、スターダンサーズバレエ団、東京シティバレエ団、そして父の主宰するユニークバレエシアターといった東京を本拠地とする各バレエ団はオペラ、バレエを主とする第二国立劇場立ち上げに向けて我こそがそこで明日を担うバレエ団だという気概で存在感を示し、それが切磋琢磨されよい刺激になっていた気がする。
私がバレエを始めて最初に憧れたダンサーは当時父の一番弟子であった金森勢先生で、その後牧阿佐美先生のもとで指導を受けるようになってからは三谷恭三さん、今村博明さん、池亀典保さん、さらにさまざまな公演に観に出かけるようになってパイオニア的存在の深川秀夫先生、ドラマティックなダンサー堀登さん、海外帰りの篠原聖一さん、中島伸欣さんといった気鋭で大人の香りに満ちた男性ダンサーに惹かれた。その後それら先輩ダンサーたちとは私の一途な気持ちが通じた?のか同じ舞台に立つ機会にも恵まれ今も親交が続いている。
ただ清水哲太郎先生とは同じ作品で舞台に立つことは結局一度もなかった。彼は松山バレエ団の芸術監督を務め、全幕バレエをすべて自分で演出・振付・主演をこなす舞踊家で当時国内で最高のバレエダンサーであった。初めて観たのが「コッペリア」全幕の主人公フランツ役で溌剌とした踊りで、男性のパ(技)でレヴォルヴァーというジャンプを国内で初めてマスターして観客に披露したことを鮮明に覚えている。またくるみ割り人形全幕でも独特の雰囲気を醸し出した素敵な王子は忘れられない。その中でも森下洋子さんと踊ったミハイル・フォーキン振付の「薔薇の精」の観に行ったときの深い表現力が脳裏に焼きつき離れず、私がローザンヌバレエコンクールで受賞してニューヨークへ行く直前の国内最後のユニークバレエシアター公演で「薔薇の精」を選び、その演出・振付・指導を思いきってあつかましくも父を通して哲太郎先生にお願いしたことがあった。彼は忙しいなか快く引き受けてくれて毎回厳しくリハーサルをしてくれた。たまに松山バレエ団のカンパニークラスまで受けさせてもらい、その時はいつもバーは隣り合わせで立ってくれて、まるで兄のように接してくれてありがたかった。そして何と本番ではメイクまでしてくれたのには感激した。哲太郎先生は長く北京舞踊学院に留学されていたこともあり、舞台メイクはとても東洋的で素敵で今でも忘れられない。リハーサル以外でも気さくに話しかけてくれて「おい充、ガールフレンドはいるのか?」とかそんな話題まで口にしてくれ人間味のあるよき兄貴的存在でもあった。本番は2日間にわたり、初日の出来は力みすぎてひどく叱られこちらも落ち込んだが、2日目はダメ出しを受けて素直に直し踊ったら「昨日と全然違うじゃないか」と手放しで褒めていただけたのがとても嬉しく、今でもあの時の笑顔が忘れられない。実は彼も私が留学したニューヨークのスクール・オブ・アメリカンバレエに留学した経験があり、のちに私の師となったデンマーク人名教師スタンリー・ウィリアムズ先生のもとで研鑽を積んでおられていた。
あの時の出会いは今思うとたいへん貴重なものであった。「いつしかアメリカから戻ったら哲太郎先生のもとでバレエがしたい…」と思いめぐらすようにもなっていたことを覚えている。しかし人生とは儚いこともたくさんある。私のひとつちがいで前年に同じローザンヌ賞を受賞した貞松正一郎君がロイヤルバレエスクールに留学し、周囲では私とライバル関係的に見られていた存在でもあった。そんな彼が私がニューヨーク入りしたあとに、ロンドンの帰りに現れ「充君、僕はこれから松山バレエ団に入って哲太郎さんのもとで頑張るからね」と言い残して帰国していった。その時何だか椅子取りゲームに破れたような感覚にもなったことも遠因なのか、その後哲太郎先生と一緒になる機会はやって来なかった。
ただその10年後私がバレエ界を席巻して大活躍した(あくまでも勝手な思いこみだが)頃、1年でもっとも活躍したダンサーに贈られるグローバル森下洋子・清水哲太郎賞という賞をいただいた。この賞は双子の兄の元や親友の熊川哲也君、ローザンヌ賞同期の吉田都さん、高部尚子さんが受賞されている誉れ高き賞で、哲太郎先生自ら私を選考したとあとから聞き、あの時以来何も恩返しをしていない無礼を恥じ感謝の念にたえなかった。
長い話となったが、実はこの5月はそれ以来の再会でもあった。終演後私は舞台袖を通され、彼と久々の対面を果たし「おーい!充!」と強く手を握りしめ、しばらく離してくれなかった。その握りしめた感触が本当にうれしく、その時の笑顔はまさにあの薔薇の精で褒めていただいた時の顔そのものであった。
今西麻布にある私のバレエスタジオHORIUCHIの壁には天使の彫刻が張られている。今から30年前、私が踊った薔薇の精の上演の際、舞台美術を担当していただいたのが名匠朝倉摂さんで、あの有名な薔薇の精が現れるシーンでなくてはならない舞台装置である窓の縁に飾られていたものである。清水哲太郎先生にはいまだにあのときの恩返しは出来ていないのだが、私が舞踊人生のなかでももっとも大切な舞台であった証として残し、そこで今なお私は舞踊活動を続けているのである。 -
●2016年6月(2)
今年も東京を中心にフランス国際映画祭が開かれる。日本では外国映画といえばアメリカ映画と決まっていてファンタジーやSF娯楽作品やアドベンチャーものなどがかならず上映している。私もかつてアメリカに5年間滞在していたときは映画をよく観に行き、日本に戻ってからも話題作には足を運んでいた。もう5、6年前の話になるが、ハチ公の米国版「HACHI」や「ベンジャミン・バトンの数奇な人生」などはバレエダンサーやレッスンピアニストが主人公で、それが身近に感じて楽しく今でもたまに見ている。若い頃は「バック トゥ ザ フューチャー」や「ターミネーター」に夢中になったもので、自作のバレエ作品にそのタイトルを真似たり、作品の雰囲気を醸し出したり、自身の振付にも影響を受けた。
今はフランス映画が好きだ。バレエ作品でドラマを手掛けるようになり、台本を読みあさることもあるが、フランスの戯曲台本を読むと、かならずまず主人公の独白から始まる。まるでアニメやドラマの始まりのあらすじを説明するような感じなのだか、それがひとりの主人公の語りによってストーリーの3分の1ぐらいを一気に語られる。本を読むときは特に感じなかったのだが、それが映画になるとその独白の場面が注目すべきところなのだ。映画が台本と同じ語りから始まり、その話に合わせた情景や出来事が映画音楽とともに展開される。その映像各シーンで映画監督や映画音楽家、また俳優たちの芸術的知性や感性が発揮され、季節に合わせた街並みや公園などの風景、またそこにいる俳優たちの演技が、ドラマティックな舞踊作品のように映り、どの作品も10分ぐらい続くが実に美しいのである。フランス映画の特徴はまさにそこで、毎回それが楽しみで開演直後がわくわくする。
昨年の公開作品「彼は秘密の女ともだち」と「ポヴァリー夫人とパン屋 」とも冒頭のシーンは素敵で期待を裏切らなかった。さすがバレエの母国フランスで舞踊芸術のセンスはこんなところからきているのかもしれない。この映画祭がなければあまりフランス映画を観る機会はなかなか得られないのでお見逃しなく。 -
●2016年6月(1)
今年も堀内充バレエコレクション2016公演を無事上演することが出来た。毎年双子の兄である堀内元とふたりで作品を分けあって上演していたが諸般の理由で今年は私のバレエ作品5演目の上演となった。
今年の出演者は過去4年間最多の50名で東京・西麻布のバレエスタジオも連日にぎやかにダンサーが出入りして稽古も熱気を帯びた。今回は全部私の作品だったためにダンサー全員と関わることが出来たのが収穫であった。またいくつかの作品はバレエミストレスを置かず、直接振付から稽古指導まで携われたのでダンサーとコミニュケーションが取れ、アーティスト同士の交流が出来た気がする。
勤める大学でも年間5本ぐらい作品を振付しているがバレエミストレスは置いていない。そこは教育と実践の場でさまざまなアドバイスこそが大切になり、またダンサー側の教え子たちが授業としての受講姿勢の評価に関わってくるからでもある。それが自分のなかで慣習的になっているためか、通常の公演時に振付家は棚上げされてむしろダンサーは本番が近くなるにしたがってバレエミストレスと親密になってしまうこともあり、それに寂しさ?めいたものを感じてしまうのである。演劇の台本・脚本家、あるいは音楽の作曲家と同じような扱いは振付家は受けたくないものである。ダンサーの生身の身体を目の当たりにしてその場であれこれ振付をし、考え込んでそのダンサーたちが夢に出てくることもしょっちゅうで一方的な片想いかもしれないが、そんな想いに馳せるのが振付家の姿である。何だか他愛のない独り言になってきたのでやめておく。
公演は各作品ダンサーたちの熱のこもった踊りで胸が熱くなった。自分がプロデュースする公演は昔からいつも本番は客席から観れないが舞台袖で見守っている。ジョージ・バランシンはほとんど客席には行かずミスターBと書かれた専用スペースと椅子が袖に置かれていた。今自分もバレエ振付家となり、その気持ちがわかるようになった。
「ロマンシング・フィールド」は私がダンサーとして絶頂期の頃、フットライツダンサーズというダンサーズグループを結成して大阪と東京で公演を行っていたときに振付した思い出深き作品で初演当時、この作品らが評価されてグローバル森下洋子・清水哲太郎賞を受賞したものでもあった。若い感性を生かしてセントラルパークで過ごす男女5組の姿を寓話や月に寄せる想いなどを重ねて描写した。
「バレエの情景」はストラヴィンスキーの同名の音楽をバレエ化させたもの。音楽は情動に満ち、また終末に向けた嘆きにも聞こえる主題と変容が印象的で、バレエブランの持つ儚い夢と重なり、幻想の世界を構築した。しかし自分の作品に対する思想に気になるところもあり、かつて同名のアシュトン版をロイヤルバレエ団で主演した親友に意見を求めた。彼は自身のバレエ団の活動にあわただしいなか返事をくれ、丁寧に答えてくれこの新作づくりに「頑張って!」と励ましてくれた。この言葉に勇気づけられたことはいうまでもない。
「ラプソディ・イン・ブルー」はこのコラムにも書いたように昨年初演した再演作品。昨年のプレミアムガラという公演で出会った、今や仲間といえるダンサーたちに加えて本公演のキャストを新たに加わって上演した。やはり私のニューヨーク時代の話や作品意図を毎回彼女たちに語りながら進め、リハーサルも充実したものになった。
「Les chemins」は毎回、私が踊る自作のデュエット作品、今回で4作品目で、昨年の「夕星のうた」、一昨年の「flowersong」と悲恋の主題が観客の共感を得たが、今年は一転ユーモアある愛の機微を描かせてもらった。音楽は“愛の小径”を起用し、文字通り、散歩道に引っかけて男女の恋の駆け引きを表現させてもらった。私はもちろん?好きな女性を追いかける男性を演じた。毎年のラインナップをみると実らぬ愛が私のテーマなのか…。
「パリジェンヌのよろこび」はカンカンダンスをあくまでもショーのようなダンスにはせず、ポアントシューズを用いたシンフォニックバレエの上演を目指した。30数年前に父が「アロンダンセ」という仏語で「踊ろうぜ!」というタイトルで振付し、私が姉と共演した思い出深き作品でもあったが公演6日前に永眠し、くしくも父を追悼するかたちとなった。女性ダンサーたちは華やかにシンボルカラーであるオレンジ色に、男性ダンサーは紺色に染まりながら熱演してくれた。なおその女性が着用した衣裳もすべて私の母が製作したもので、観客の皆様にその衣裳をおみせすることが出来たのもうれしかった。
本番当日は観客席でも毎年さまざまな顔ぶれの著名人の方々がみえて下さる。各バレエ団芸術監督の方々をはじめバレエ関係者はもとより、舞踊家・音楽家、プロデューサーや毎年10名を超える舞踊評論家、また演劇演出家、指揮者、作曲家、俳優や女優やオペラ歌手、舞台美術家、大学教授や高校教員、芸術大学生、文芸作家、漫画家にカメラマン、元体操オリンピック選手までと実に多彩な芸術家が集まり、休憩時間ではそれぞれが交流されている。かつて昭和の時代に夕刻になると美術展や音楽コンサートといったところに音楽・文芸・演劇のアーティストたちが集いロビーやそのカフェがサロンとなり芸術家同士が親交を深めていたことを父から聞いたり三島由紀夫の愛読書から知っていた。私が望むのはまさにバレエ公演もそのような芸術家のサロンとなることであり、来年以降もさまざまな方々をお迎えしたいと願っている。
終演後は劇場そばの食事処を貸し切り、夜遅くまで若い出演者たちと公演の打ち上げ会を行い、短いながらも充実した稽古の日々、そして本番を労いながらみなと楽しい一夜を過ごした。 -
●2015年5月
5月に東京で行われるプレミアムダンスガラと題したバレエ公演に振付を依頼され作品を発表することになった。公演を企画したのは同じバレエダンサーの西島数博君で、彼とは親交が深く、若い頃ともにサンフランシスコバレエ団に招かれ同じ作品を踊ったことがあり、以来お互いそれぞれ出演する舞台にはよく応援にかけつける仲になり、そんな彼が自身の公演をすることになり声を掛けてくれた。作品も彼自身がガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を振付して欲しいというもので喜んでお引き受けした。
そのためのオーディションが開かれ、女性13名を選考させていただき、主役級の男女1組のダンサーを加えて都内のバレエスタジオでリハーサルを行なった。友情で結ばれて順風満帆で行くはずと思われたが思わぬことが次々と起こった。まず音楽は素敵なジャズ音楽ながら、いざ舞踊化させるにはなかなかの難解で百戦錬磨?の私でも手こずることが多かった。それに加えなぜかこのリハーサルではスタジオ手配の手違いが多く、振付の最中に稽古を突然中止させらたりアクシデントが絶えなく、紆余曲折の稽古の日々が続いた。
しかしである。ほとんどのダンサーと初顔合わせで、またダンサー同士も初めてながら、かえってそれが作品完成に向けて熱い気持ちを奮い立たせ主役を務める柴田有紀さんをはじめ一致団結し、振付を無事進めることが出来たのである。こうして稽古をさせていただいたスタジオ主催のスタジオパフォーマンスを経て作品も完成して、異例の本番前に夕食会まで開いてみんなで素敵な時間を共有した。その時マジックショーがあるレストランに出演者全員を招いたのだが、それもあって一同大はしゃぎであった。一期一会とはまさにこのことで、本番もダンサーの力が結集して作品に大輪の華を咲かせてくれた。 -
●2015年4月
4月になり暦では新年度が始まった。毎年勤める大学で卒業制作の授業を担当している。卒業制作公演があり、その中で舞踊を専攻している者は当然舞踊作品を取り上げる。よって舞踊作品を創作するにあたりそこでさまざまな作品の指導にあたるのだか、私自身この科目を担当して14年目を迎える。これまでに実にさまざまな作品を見てきて平均して毎年4-5作品なのでその数は50作品前後になる。1作品20-15分ぐらいの上演時間で10-15名ぐらいのダンサーで作品は構成される。ほとんどがモダンダンス手法である素足を原則としている。しかし指導教員の研究専門がバレエ、ダンスクラシック技法による振付であるため、バレエ作品、ポアント作品をつくりたがる傾向があるが舞踊学の根底は素足によるモダンダンスが基準であるからなるべくその方向で取り組ませている。
毎年卒業制作を見守りながらさまざまなバレエ、ダンス公演観てきて感じることだが、わが国のダンスシーンは実に多様で今やストリートダンスやコンテンポラリーダンスの分野はほんとに日本人なのかと疑いたくなるような破天荒な作品が氾濫している。この道の先輩として言わせてもらえば、やはり首をかしげることが多い。かつてアメリカに5年間いたこともあり、祖国を離れた経験から自身の民族について問われたり、問いかけることが今の世代には薄れている気がしてならない。若い世代だからといって現代社会のに反映される多国籍的な奔放な作品カラーを生み出すことが使命ではない。むしろこれからの時代、とくにオリンピック開催を担う国としてより自国の民族性、カラーというものを大切にしなければならないのではないか。芸術とは美しくしようと思考した瞬間に発生するものである。ただ生きる瞬間を噛みしめるダンスを目指すだけのものはそれは“行動”に過ぎない。テレビなどでぜーぜーハーハーしながら動いたり、無意識に近い手振り身振りする姿をダンスとして受けとってしまうことをよく目の当たりにするが、それはダンスではない。かならず美と向き合う時間をしっかりかけ、創造しなければならないと常に学生にアドバイスしている。
日本には“舞踊”という素晴らしい言葉がある。このことばの真意をさぐることがわが国の民族性あるダンスを追求することに繋がると信じている。大阪芸術大学舞踊コースの専攻課題はまさにそこにあるのである。 -
●2015年3月
2月下旬に今年も大阪芸術大学院舞踊コース卒業舞踊公演が行われた。毎年チケットは完売で観に来られない方々が多く今回初めて2日間にわたり上演した。それでも出演者たちの宣伝努力もあり、両日とも満席で合計1000名近い観客で溢れた。上演作品は「ホテル・モーツァルト」「アルルの女」「ラ・バヤデールより宮殿の場」「パキータ」や卒業制作作品、モダンダンスなどラインナップし、恒例のフィナーレでは大きな拍手を受け涙なみだの幕切れとなった。
卒業する20名は東京へ上京してバレエ団を目指す者やテーマパークで新しい活動の場に向かう者、そして大学院に進学する者などさまざまである。卒業とはいえこれら若き芸術の挑戦者たちを引き続き温かく見守っていきたい。 -
●2015年2月
新年というのにつらい気持ちで取り組むふたつの舞台があった。それは青山劇場・青山円形劇場のふたつの劇場が閉館されることになり、どちらもその最終公演に関わらせていただいたことだった。
ひとつは毎年年末と年始にかけて行うこどもの城・青山円形劇場主催のファミリーオペレッタ最終公演「夢の国のちびっこバク」で、高円宮妃殿下原作のオペラ化したものでバレエシーンを振付担当させていただいた。年末年始は高校生から小学生まで選考されたジュニアダンサーにバレエを振付することが恒例となっていて毎年楽しみにしていた舞台でもあった。
この劇場は今から27年前に劇場開場記念バレエ公演の際に振付作品を出品・出演させていただいて以来、さまざまなバレエ・ダンス公演にダンサーとしていちばん最盛期の頃に出演させていただいた思い出深き場所であった。近年では玉川大学芸術学部パフォーミングアーツ公演でも後輩バレエダンサーたちに毎年必ずバレエを振付し上演させていただいていた。
演出・脚本・主演をすべて引き受けていたオペラ歌手の吉村温子さんは私の恩師のひとりである同劇場プロデューサーの故高谷静治さんのご夫人で長くこの公演をライフワークのように取り組んでおられていただけにご本人の無念さを思うといたたまれない気持ちでもあった。本番初日は演出を担当された私の尊敬する舞踊家の名倉加代子先生と高円宮妃殿下と3人並ばせていただいて観賞し、公演を見守らせていただいた。
もうひとつは同じくこどもの城・青山劇場主催の青山バレエフェスティバル最終公演が1月下旬にあり、そちらも振付・出演させていただいた。すでにこのフェスティバルは10年ほど前に閉幕したがこの閉館を前に、日本のバレエシーンを牽引した姿を最後にもう一度観客にアピールしようと行われたもので、こちらも長きに渡り関わらせていただき、とくに芸術監督を務めさせていただいただけに名残惜しい限りであった。双子の兄堀内元やこの公演をきっかけに親友となった熊川哲也君、バレエキャリアのなかで長いあいだ良きパートナーとしてペアで踊ってくれた渡部美咲さんや多くの恩師、先輩、後輩との思い出は尽きない。
またフェスティバルだけでなく、名倉加代子ジャズダンス公演やホリプロバレエ公演、ミュージカルなど数多くの公演に出演させていただき、最近でも大阪芸術大学東京公演でもバレエシーンを教え子たちに振付をしてきただけに、この最後の舞台に立てたことは有意義であった。
ただ、今回の公演はかつての出演者が一同に会したわけではなく、ベテランから若手まで今の国内のバレエ界の第一線で活躍するアーティストが集結しただけあり、こちらもしっかりと踊ることに必死でそんな感傷に浸る余裕など全くなかった。そんななか最後の全員によるカーテンコールではやっと気持ちが高揚して、皆が一斉にレベランスときに笑顔いっぱいにバンザイジャンプをしてしまい、観客がどっと沸いた。終演後に多くの関係者からそれを話題にされてしまったが自分の中ではあまり特別なことをしたわけではなく、若い頃この劇場でたくさんはしゃがせてもらってきたので、たまたまその時の側面がいつも通り出ただけであったのだ。劇場も喜んでくれたかなぁ。 -
●2015年1月
12月になるとめっきり冷え込んできてダンサーもそれぞれレッスンやリハーサル前の手入れ、ウォームアップも入念に行わなければならない季節となった。
ニューヨークのバレエ学校時代、いつもレッスンの40分ほど前にスタジオに入っていたがマンハッタンの冬は厳しく、スチームが入っているとはいえ、さすがに広い学校のスタジオは寒さが身にしみた。当時は今のようにセラバンドやストレッチポールを使ったトレーニング法はまだなく、各自思い想いのやり方でストレッチをしていたが、当時から学校帰りにスポーツクラブに週4回通っていたこともあり、体幹づくりは心得ていてそのやり方は今とさほど変わっていなかった。そんな寒さのなかで最後に先生とピアニストがスタジオに入ってくるとわれわれ生徒たちは一斉に立ち上がり、無言でそれまで来ていた上着を脱ぎレオタードシャツとタイツだけになり早くもバーにつかまり、ファーストポジションとなる。そして静寂のなか担任のデンマーク人のスタンリー・ウィリアムズ先生が口を開くのを待つ。彼は始めるまでいつも気持ちが向かうまで何もせず思慮深く一点を見つめていることが多く、時には数分止まっていることもある。そして「オウケイ、エンドゥ…」という静かな一言でレッスンが始まる。今思うとこの瞬間がたまらなく嬉しかった。今日もバレエに触れられるのだという気持ちになりながらファーストポジションとアンバーに全霊を注ぐ。バレエダンサーにとってはこのポジションは一番ではない。ゼロなのだということをニューヨークで初めて知った瞬間でもあったのだ。
ローラン・プティの振付で知られる「アルルの女」を12月の大学学内公演で振付した。アルルはフランスにある田舎町でゴッホが愛した土地でもあり、彼はそこで多数の絵を描いた。昨年のフランス研修旅行でゴッホのゆかりの地や彼が眠る墓を訪ね、美しいビゼーの音楽にも惹かれ、いずれ振付をしてみたいと心にしまっていたが、この夏、熊川哲也君の誘いで渋谷オーチャードホールガラ公演で舞台づくりに関わらせていただいた際、彼の踊るフレデリ(アルルの女の主役男性)を観てその素晴らしさに胸を打ち、よし創ってみようと意を決して取りかかったのだった。ちょうど偶然にも上演前に大学演奏会で演奏を聞く機会もあり、大学舞踊コース生の教え子たち全員を引き連れて鑑賞もした。台本では主人公はアルルの女というタイトルながらその女性は一切登場しないが、自分の演出ノートとして、ロミオとジュリエットのように民族の対立を絡ませて主人公の男女の姿や周りを取り囲むダンサーたちの踊りを構築した。本番ではダンサーたちみんなが熱い気持ちでのぞみ、主題に迫ってくれたのがうれしかった。
12月下旬には毎年恒例のバレエ「くるみ割り人形」全幕を振付し、栃木県宇都宮で17年連続の上演を果たした。今年は雪片のワルツの雪の精の踊りや、スペイン、アラビアといったディベルテイスマンを再振付しよりダイナミックなものになった。地元ダンサーに加わって私のかつての東西の大学の教え子たちが活躍して華を添えてくれた。この公演では毎年演出振付をさせていただき、今後も1年でも長く続いてほしく、この宇都宮でバレエくるみ割り人形が地域文化の発展の一助となることを願っている。雪が降るなかバレエを観て宇都宮餃子を食べて帰る・・・そんな旬なことをぜひ体験してください。